堕ちるまで、君を愛する #月刊撚り糸 (2021.3.7)
「もう、またため息?」
幼馴染の優香が、少し諦めたように呟きながら俺を見た。
「仕方ないだろ」
本当は仕方なくなんてない。
悪いのは誰が見ても俺だろう。
だけど、誰かを好きになる気持ちは止められない。
誰かを好きになることが、こんなにも苦しいなら、恋という感情なんて知りたくなかったと思うのに、俺はどうしてもこのどうしようもなく彼女たちに惹かれる自分の気持ちを止められないのだ。
「でも、いい加減にしないと、全国の真帆ちゃんに、刺されるわよ」
優香はそう言いながら、マスタード色のマニキュアを丁寧に塗り始めた。
一番最初にできた彼女の名前が、真帆だった。
まだ俺が高校一年生の時。ひとつ年上の二年生で、生徒会の役員をやっている綺麗な女性だった。誰もが真帆に憧れてた。先輩からも可愛がられ、後輩からは慕われ、先生たちからの信頼も厚く、同級生からも頼りにされていた。
そんな憧れの真帆がどうして俺を好きになったのかは未だにわからない。
俺と真帆は結局、真帆が卒業した時に別れたけど、今思えば別れの理由も曖昧なままだ。
その次にできた彼女は、真帆と別れた春に入ってきた一年生だった。その彼女の名前も、真帆だった。学年で一番の美人と噂された彼女が、俺を呼び出して告白してきたのは、入学してまだ3日しか経っていない時だ。
最初は、名前も知らなかった。告白された時、初めて彼女の名前が真帆だということを知り、衝撃を受けた。
それから俺は、真帆という名前の女性と出会うたびに、言い寄られる。
バイト先で、スポーツジムで、駅のホームで、とにかく俺に好意を寄せ、俺に言い寄ってくる女性は、みんな真帆という名前だった。
俺は今、ふたりの真帆と付き合っている。
困ったことに、どちらも本気なのだ。
もし、出会いのタイミングがずれていたら、ひとりの真帆に愛情を注げたのにと思う。
でも、どちらの真帆といる時も、俺は目の前の真帆だけで心も身体も満たされる。
どちらも選ぶことなんてできない。
「しょうがねーだろ。どっちも本気なんだから」
「そうね、蓮はいくら私が誘惑しても、絶対に真帆ちゃんを裏切るようなことはしないもんね」
クスクスと、優香が笑う。
「当たり前だろ」
「蓮がふたりの真帆ちゃんを、ちゃんと愛してるなら、それでいいんじゃない?」
ふたりとも、真帆という名前以外、見た目も性格もまるで似ていない。
俺がマスタード色のマニキュアをプレゼントした真帆は、俺より二つ年上。
モデルのようにスラリと背が高く、すれ違う男どもは、みんな一度は真帆を振り返るほどの美しさだ。商社で働いているが、街中でスカウトされることもあるらしい。
もうひとりの真帆は、小柄な看護師だ。
目がくりくりと大きく、笑うととても可愛い。
どちらかと言えば、癒し系。心が弱ってる時、俺はつい真帆の膝枕で甘えたくなる。
だけど、ベッドの上ではがらりと表情を変え、そのギャップが堪らなく俺を夢中にさせている。
普段なら、俺は平等に真帆にプレゼントを贈る。
だけど、俺は今回、ひとりの真帆にしか、マスタード色のマニキュアを贈らなかった。
それなのに、ふたりともがマスタード色のマニキュアをしていた。
そして、ふたりともがお互いの存在を知っていることを匂わせてきた。
「優香だって、自分の恋人に、自分と同じ名前の女が別にいたら、気にするだろ?」
「そりゃ、当然よ」
なんだよ。自分は気にするんじゃねーか。
やっぱり、平等にプレゼントを贈らなかったから、今回のようなニアミスがあったんだろうか?
どちらの真帆も、俺にとっては大切な女性だ。
ふたりとも同じように愛しているし、失いたくはない。
今後は気をつけよう。
俺はどちらの真帆のことも、傷つけたくはないし、泣かせたくもないのだ。
突然、部屋にインターフォンが鳴り響く。
こんな時間に誰だろう?
モニターを覗くと、若い女性が映っていた。
「夜分にすみません、今日、隣に引っ越してきたので、ご挨拶に伺いました」
朝から、外が騒がしかったのは、隣が引っ越してきたからだったのか。
わざわざ挨拶なんて来なくてもいいのにと思いながら、ドアを開けた。
「夜分にすみません。隣に引っ越してきた、杉野真帆と申します。よろしくお願いいたします」
真帆!?
同じ名前に、冷静を装うけど、指先が僅かに震えているのが自分でもよくわかる。
「進藤蓮です、こちらこそよろしくお願いします」
真帆と名乗った隣人は、にこりと微笑む。
その笑顔は、何かが起きる予兆を感じさせた。
部屋の奥からは、痛いくらいの優香の視線が俺の背中に向けられているのがわかる。
きっと、この扉が閉まった瞬間に優香は言うんだろう。
「気にしないのが一番だから」と。まるで他人事な一言を。
2021.3.7