岡山新報デジタル【創価学会の正体】
●創価学会の正体⑤
政治との関係
創価大学の中野毅によれば、創価学会の政治参加の動機は、中小企業労働者を中心とする民衆の代弁、政治の監視、信教の自由の確保の三点に集約されるという。会長秋谷の日本外国特派員協会での1995年(平成7年)の会見でもこの3点が強調された。
創価学会インタナショナルの Rie Tsumura によれば、創価学会の政治への関与は第二次世界大戦時に弾圧された経験をもとにした「主に防御的」("largely defensive")なものであった。
政治学者の中北浩爾は、「公明党は、宗教団体の創価学会を支持母体として、一九六四年に結成された。自民党が財界をスポンサーとしつつ農村部に主な支持基盤を築いたのに対し、公明党は高度経済成長に伴って都市部に流入した比較的貧しい人々を組織化した。日本政治の中枢に位置した自民党とは違い、公明党は周辺から生まれ、成長していったのである。」とした
國學院大學の塚田穂高によれば、第二代会長戸田城聖は「国立戒壇」の建立を訴え、「王法と仏法が冥合すべきである」(「王仏冥合」)として政教一致的な理念を論じた。中野毅によれば、戸田の展開した王仏冥合論・国立戒壇論は政教分離原則に反するとの疑念を受けやすかったが、戸田に日蓮正宗国教化を目指す意図はなかったという。国立戒壇の建立は創価学会の政治進出における宗教的目的であり、世俗的な目的はあくまで「社会の繁栄と個人の幸福」を一致させることにあったと中野は指摘した。中野によれば、「国立戒壇」建立は戸田時代初期の創価学会の政治参加の目標の一つだったが、早い段階でそれは放棄された。島田裕巳は、創価学会の政治への関心について戸田が1956年(昭和31年)に記した中での「本門の戒壇」への言及、池田の1959年(昭和34年)の「国立戒壇の建立と学会員の前途」という講演における「政治上に、本宗の正義を用いる」という発言に注目し、これらの表現は「実質的には日蓮正宗の国教化を意味」していたのではないかと論じた。
戸田の下、創価学会は1956年(昭和31年)の第4回参議院議員通常選挙での白木義一郎・北条雋八擁立などを通して政治に進出した。第三代会長池田大作の時代に「国立戒壇」という言葉は「本門の戒壇」「民衆の戒壇」などに言い換えられ、「仏法民主主義」「世界民族主義」など普遍性のある用語が目立つようになり、「国立戒壇」は1964年(昭和39年)の公明党結党宣言にも盛り込まれなかった。創価学会批判の妨害や政教分離を巡る言論出版問題を受けて1970年(昭和45年)に創価学会は「国立戒壇論」放棄・「政教分離」を宣言し、公明党綱領から「王仏冥合」などの宗教用語を削除して公明党の宗教色を薄めた。
創価学会・公明党は、公明党結成後の1960年代靖国神社国家護持法案反対・日米安保条約改定反対など革新政党の立場にあった。中野毅によれば、このことが理由で創価学会は保守陣営から危険視された。島田裕巳は創価学会は「下層階級を組織化」する点で左翼陣営と競合していたと指摘し、創価学会が政界進出を始めた時点で創価学会は左翼陣営に批判されることはあったが保守陣営に批判されることはなかったと主張する。初期の創価学会は大都市に流入した下層民を中心にしており、学会員の圧倒的多数が社会階層の下層から中間層の下に位置することは2010年(平成22年)に至るまで変わりがない。
寺田喜朗によれば「創価学会の中央―地方組織(中央本部・方面本部・都道府県本部―総合本部・圏ゾーン・本部・支部・地区・ブロック)は、選挙の区割りに対応する形で編成されて」おり、「選挙は、会員間の結合を強化し、組織を引き締め、会員を切磋し、達成感・充実感を与え、創価学会への帰属意識を高める重要なモメント」であるという。島田裕巳は、創価学会では選挙活動が一種のイベントとしての性格を持っており、選挙活動を共にしたことで親密になり、結婚にいたる創価学会員のカップルも少なくないとしている。