【真珠湾攻撃】陥れられた日本12
🔴情報源の諸説3
スパイによる通報説3
ウリツキーとの遭遇の有無や日本側が遭遇する可能性を知っていた点については、北沢法隆が1991年に検証をおこない、以下のような結論を導いた。
日本海軍は、米西海岸から総領事経由で船舶の動静を含む情報を収集しており、それを機動部隊に伝えていた。
機動部隊が警戒していたソ連船はサンフランシスコを現地時間11月14日と11月29日に出港したもの(それぞれ11月29日、12月7日頃の遭遇を予想)で、11月28日に出港したというウリツキーとは一致しない。
第八戦隊参謀・藤田菊一中佐の12月8日の日誌に「夜来最も恐れ、且警戒せる行遭船もなし、天佑により隠密接敵 完全に成り待望の朝を迎う」とある。
米太平洋時間の11月28日以降にサンフランシスコを出港したウリツキーが、日本時間12月6日に機動部隊と遭遇するのは航路と速度から困難である。
機動部隊は前方に警戒駆逐艦を配備していたが、その視程は32~33kmにおよび、貨物船よりも早く相手を発見可能である。仮に発見した場合には探知情報が前衛艦→旗艦→列艦の順に伝達され、緊急一斉回頭と速力上昇による確認防止のための避航動作をおこなうはずだが、関係者の当時の日誌類にはそうした記述がない。
北沢は阿川に記述の出所を確認したところ、元連合艦隊司令部の参謀だった渡辺安次との対談で直接得たとのことであった。渡辺元参謀はこの時点で故人で確認はとれなかったが、北沢は11月末のソ連船警報や12月6日の「敵潜水艦らしきものあり」という緊急電などの情報が交錯して「遭遇した」と記憶したのではないかと推定した。また、『山本五十六』は1979年にアメリカで出版されたことからこの記述が伝わり、1983年に海軍歴史シンポジウムでソ連船が取り上げられたことがレートンの記述の背景にあったとしている。
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