生きること
2025年になりました。
去年の末、ここ数年の寂しさが限界にきて恋人に一緒に過ごして欲しいとお願いした。私の我儘で彼の家族と心地の良い家から離してしまうことに申し訳なさを感じながらも、我儘を聞いてくれたことが嬉しかった。
笑って過ごしながら迎えた2025年はきっと良い年になりそう。
大厄年は超えたものの、その時に厄年感を浴びまくったので(お陰で大成長を果たした気はするが)、次の厄年が回って来て気になって、初めて厄祓いをしてもらった。
善光寺の護摩堂。
お正月は1時間に一回やってくれるらしい。
お坊さん達を囲むように、厄祓いや願掛けなど様々な祈りを願う人たちが彼らの周りに集まり、願う。
真ん中で大きな炎がバチバチと音を立てながら、人は何故このようなことをするのだろうと考える。(自分で行っておいて…笑)
ここにいる一人一人の願い、祈り、それらを汲みあげる人たち。一体これはなんなのだろう。今は何の時間で、この状況は何なのだろうと。
私は神を信じていないわけでもないと思うが、だからといって特定の神がいるわけでは無い。でも何かに祈りを捧げるということがどういうことか、どういう心境でその行為が行われるのか少なからず理解している。
理解しているからこそ母を憎みきれない弱さを抱えているわけだがそれは置いておいて…。
人とは本当に不思議だ。
生きているということは存在しているということだが、この存在の意味を私たちは誰もが知りながら知り得ないこと、深く知ろうとすればするほど深淵を覗くことになるのだろうか。思考の果てはないから考え続けることが出来てしまうこと。答えを探すような生き方をすること。
なかなか不思議で全く分からない。
この分からないことに、昔からずっと、気になって仕方なかったのに、つい疲れてしまって気が付かないふりをし続けてきたので、今年は少しずつ向き合っていきたいと思う。
体力がついて来たのは強い味方である。
2025年、どんな年になるのだろう。