愛着障害の克服に友人を巻き込んでいた話

発達障害のグレーゾーンに愛着障害による影響がかなりあるタイプだった。カウンセリング含め、自分で調べて学べば学ぶほど面白いぐらいに当てはまり、そうして克服したいがために調べていくどの解説の最後の頁の最後の方には1人で解決が困難なことが書かれていて、私はその度に絶望していた。
結局1人ではこの苦しみから解放されることは無理なんだなと。他人を頼ることが難しいと決めつけていたので、結局ここにも影響が出て希望の道筋を受け入れることができない。
そうして結果、友人を巻き込んでいた。

大学生の頃、私にはかなり仲の良い友人がいた。傍目に見ていても彼女は私のことを信頼してくれていて、好いていたと思う。しかし当時の私には、好かれる事にどんどん嫌気がさして受け入れられなくなっていった。
他人を信頼することなど出来無いと思っていたので、自分のことを好いている人を最終的に信じられず、ここでまた独りよがりをしていたのだ。今ならば分かるが、私は当時本当にその友人のことが大好きで、楽しくて、たくさん笑っていた。なのに他の友人には彼女について尋ねられた時全く逆の態度を取り、彼女に対しても、いつか自分が傷付けられないように、裏切られる前にと、先に私から突き放すような発言をして、終いにはそれを正当化もしていた。「私は悪くない」これを無意識のうちにやってのけ、彼女の傷付きなどいざ知れず平気な顔をしていたのだ。あまりにも人を傷付け過ぎていたが、ありがたいことにその友人と関係性は続いていたので大人になった時、「傷付けてしまったこと」に対して謝らせてもらう機会を設けた。自己満足で申し訳ないのは承知で、私がスッキリしたいためにこうして何度も彼女を利用していたのだ。
どう足掻いても言い訳に過ぎないが、私が彼女を傷付けたのは私が自身の愛着障害に向き合うことをせずに気が付いておらず、心を閉ざして他人との関係性の構築は不可能と信じていたからと今はっきりとわかる。ようやく分かったのだ。逆張りすぎるだろと。傍迷惑過ぎて碌な事ないな。

10年分の諸々を捨てようと本腰を入れて部屋の片付けをしていたら、大学卒業の時の寄せ書きが出てきた。彼女とはゼミが一緒だったので当時ゼミ生たちで一人一人にメッセージ付きのミニアルバムを作ったのだ。そこに書かれた彼女からのメッセージを私が初めてしっかりと読んだのは卒業して数年後。恐る恐る読んだ。そして今日、そのアルバムが出てきて、私は初めてしっかりと、心の底からこのメッセージを受け取れたと思う。泣きながら読んだ。書いてあることの彼女の心の広さにびっくりして、本当に暖かくて太陽みたいに心を照らす彼女の偉大さを、私はすっかり忘れていたと気が付いた。
ありがたいことに今も関係が続いているので、ちょっとこれからご飯を奢りに行こうと思う。私は11年前の私と彼女に伝えなければならないことがある。
またしても自分勝手で突拍子もなく、発達障害だからじゃない?って思うけど、これは紛れもなく私が選ぶ行為だと思う。


もうひとり、大人になって小学校からの幼馴染に再会した。再び意気投合し、なんでも話せる関係になって行った。
しかしここ最近は本当に顕著に反応が現れていた。私は知らずのうちにまた、何度も友人を傷付けるような発言をして、ついには彼女が勇気を出してそれをやめて欲しいと言った時に私は、こともあろうか咄嗟に言い訳をしていた。いくつかそれっぽい御託を並べ自分の心を守っていたのだ。
家に帰るとそのことにすぐに気がつき、この時この気が付いたことを伝えれば良かったのに伝えなかった。気が付いたことで私自身はスッキリし、次から気を付けよう、次こそ大丈夫だ、となっていた。しかし、実際に目の前にすると彼女の不安を無意識に感じとり、私はそれにしっかりと反応し、また同じことを繰り返すのだ。これは双方が無意識下のうちに起こっていたことで、完全に悪循環だった。

だから私は彼女が離れていくならそういう運命だし、応援してるから彼女の意思に委ねようとして、また考えることを放棄して楽な道を選んだ。


少し前に遡り、親友が結婚した。私はそのことが本当に嬉しくて、少し寂しい気持ちに蓋をした。本当に嬉しかったから、少しも邪魔したくなくてよっぽどな事がないと連絡を控えた。ある日彼女が1人の予定を入れていた時、私は誘われなかったことが本当にショックで、あまりにショックすぎて少し取り乱して軽い感じで連絡をしたが、もう多分この時は寂しさが限界だったと思う。
いま振り返って、どうして寂しいと言えなかったんだろうと考えた。今までの関係性が少なからず変わったことに対する不安を彼女は理解するだろうし、全然引いたりせず受け入れてくれる気がした。当時は少しでも重いとか、逆に変な心配をさせてしまったらとか、この時もとにかく自分が傷付かないように必死でそっと距離をとった。確かに時間が必要だったが、今更伝えてみても良いかも、と思ってハンバーグを食べながら伝えてみたら、本当にすんなりと受け入れてくれて、なんか2人でハンバーグ屋さんでこそっと泣いちゃった。

さて、お気付きの通り私は親友が結婚したことにより、幼馴染を安全基地にしようとしていたので、(いや実際にはなっていたのだが)、幼馴染に対する比重が多くなってしまっていたのだろう。そしてある時、また私の勘違いによりそれが盛大に揺らいだ出来事があった。
そこから多分、私は彼女が私のことを受け入れていないことを前提として関係を再構築し始めてしまったのだろう。
私はその時も、比べる必要はなかったのに、また「自分がダメなばっかりに傷付けてしまったんだ」に帰着してしまった。

この帰着は自分が傷付けられたと感じた時、自分を守る為の常套手段として思考パターンとして私に組み込まれているので一番スムーズなのだ。そしてまた、不安に酔って死が近く、早く死にたいと思っているものには大変心地が良いのだ。苦しいのにこの思考パターンが染み付いて消えない。
だからもうこれ以上傷付けないでと言えなかった。
何故なら私がはじめに傷付けているのに言えるはずがないと思っていたからだ。
離れるなら仕方ないし、そうなるべきなんだろうからそれならそれでと、受け入れて(逃げて)いた。相変わらず、いつまでたっても自分本意。

愛着障害に何かいい映画(なんだそれ)と思いつつ、調べてみたら映画「普通の人々」がオススメされていた。

1980年のアメリカの映画だが、元々映画は好きなのでほうほうと思い何気なく見た。あまりにも、あまりにも全員が自分に重なってしまう。
母親の無関心を受け入れつつ、しかし寂しさから身を守るために反抗的な態度をとる。振り返らない母親。大切なものが何か見極められない、どっちつかずの父親。彼らがそれぞれ自分の道を進み始める映画だった。

最後、母親が涙をグッと堪えて家を出ていく準備をするシーンがある。あれは間違いなく私だと思った。かつての私。
何度でもチャンスはあったが、差し伸べられた手を拒み続け、私の悲しみを理解できるのは私だけと他者と向き合うことを避け続けると訪れる末路なのだ。私はもうこの母親のように自分の悲しみに酔いながら生きていきたくない。悲しみは手放せない。悲しみは受け止めながら生きていきたい。
私はこの映画の息子のように、考えることから逃げないで生きたいし、その道をどうにか歩きたいと思った。
私が今どうにか生き伸びている理由は、それだけの強さが私にあると言うことだとこの映画を通して気が付くことができた。

自分の愛着障害を受け入れないままに人生が進み、一見円滑に見えたとしても愛着対象を失った時、また全ては振り出しに戻り崩れていく。失わなければ気が付かず、そのままどうにか人生は終わるのかもしれないが、多分どこかでずっと独りよがりで苦しいと思う。
私は今までずっと、苦しさに蓋をしながら生きてきた。しかしその蓋は時々開いて、またそこから一気に心を支配する。

幼少期に養育者からの適切な安全基地による愛着形成が成されないまま大人になってしまった人は少なくないだろう。
そうした人が安定性を取り戻すには数々の困難がおとずれる。疑心暗鬼になりながらも安全基地を作ろうとしてしまうことで周りの人を傷付け、何度だって相手を試してしまう事だってある。そのうち相手が疲れ果てて、また1人になりながら不安定な安心を取り戻し、誰もわたしをわかってくれないと酔いながらどうにか生きていく。
生き延びているならば良いのではないかとも思う。しかし問題は、運良く安全基地が見つかった後も、自分の愛着障害を受け入れて振り返らない限り、その安全基地を自分が壊す、それを繰り返す可能性をふんだんに孕んでいるのだ。そして幸せにしたい人たちを自ら壊していく。



一番苦しく、立ち向かわなければならないことはただ一つ。
最終的に自分自身を安全基地にすることを目指さなければ意味が無いと気が付いた。


安全基地を見つけることによって、その後自分も他人の安全基地になり得ることを学び実感して、受け止め成長をしなければならないという。
私にとってか、私のような死の恐怖を持ったものにとってはこれは特に必要なことだろう。

人は人の死ぬ順番を人は知ることができないのだ。
順当にいけば老いたものからこの世を去るが、世の中にはイレギュラーなケースがたくさんある。病気で寿命が判明してしまっている人が近くにいても、先に世話をしていた方が不運な巻き込まれ事故に遭う可能性だってある。

私はいつ訪れるかわからない「死」のことが本当に怖い。

だから自分にはいつ訪れても良いのだ、むしろ自分にはいち早く訪れてくれとすら思っていた。
周りの人たちにそれが尋ねてくることが本当に恐ろしく、逃げてきた。毎日伝えたいことを伝え全力で生きる。聞こえは良いが、ただ自分が悔いの無いようにしたいだけで、相手のことは全く考えていない。これでは私の存在は、真に誰の安全基地にもなり得ることができない。

安全基地は成長によって適度に変化していく。私にとって、最初の安全基地であった祖父母が順に亡くなっていったとき、それは確かなものに成り切る前に消えてなくなってしまったのだ。
その後、小学生の頃の養護学校に行ったが卒業と共に安全基地を無かったものにした。中学の頃は思春期も相まってかなり不安定だったが歪ながらもやりすごし、高校生の頃にバンドの仲間と出会いまた安定し、そして大学生になり、疑心暗鬼が襲いかなりまた不安定になった。
繰り返していくうちにこの不安定さの方に順応し、実家に戻りかつて安全基地になって欲しくても手に入らなかった親元で、表面上当たり障りなく過ごした。当たり障りなく過ごすことによってわたしの思考は停止して、また周りを傷つけ始めていたのだ。

しかし今、本当に大切にしたい恋人や友人ができて、彼らを大切にするために自分を大切にしなければ前に進めないことに気が付いた。

彼らが大切にしているわたしを、わたし自身が大切にできるように生きていきたい。そうでなければ、私は彼らを大切にできない。

私には、それぞれの人生を各々が必死で生きながら愛に溢れている友人がいる。近くにいても遠くにいても、その人たちの存在が今の私を作り上げていることは間違いない。

だから私は、私を愛しているよと。


まだ道半ばだが、この旅を用意してくれた友人に最大限の感謝と愛を。


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