「僕が一番欲しかったもの」を聞いて、また彼を思う。
先日、友達の運転する車に乗っていたとき、Amazon Musicから流れた曲に
「懐かしい~♡」とお喋りをやめて聞き入ったのは、2004年にリリースされた槇原敬之さんの「僕が一番欲しかったもの」という曲。
「たしか何かのドラマの主題歌だったよね~」なんて話しながら、その時は終わったのだけど。
それから何となくずっと頭に残っていたので、また聞いてみた。今度はじっくり、かみ締めて…
この歌詞の中の「僕」は欲しかったものを拾ったのだけど、「僕」以上にもっと必要としてる人に、「ちょっと惜しい」と思いながらも拾ったものを渡す、という歌詞。しかも「僕」は毎回同じように渡してしまうのだけど、拾ったものを渡したその人の笑顔が見れてうれしかった、と。
何度も手に入ったものを、その都度必要としている人に渡すことのできる「僕」は、とにかくすごく良い人なのだ。
そして最後に、気が付く。
結局僕はそんな事を何度も繰り返し
最後には何も見つけられないまま
ここまで来た道を振り返ってみたら・・・
僕のあげたもので たくさんの
人が幸せそうに 笑っていて
それを見たときの 気持ちが僕の
探していたものだとわかった
今までで一番素敵なものを
僕はとうとう拾うことができた
※槇原敬之「僕が一番欲しかったもの」より引用
この何でも結びつける癖はどうにかしなければと思いつつも、何度も聞いているうちに、特に最後の歌詞を聞くと、どうしても春馬くんを思い出してしまうのだ。
春馬くんは、この歌の中の「僕」のように、「自分はさておき」という人だ。と言いながら、もちろん実際会ったことがないから、私の想像だけど。
春馬くんは、たくさんの努力をして作りあげた作品で、たくさんの人を楽しませてくれてたけど、もっと上、更に上を目指して努力をし続けてきた人。
みんなを喜ばせることに注力するだけでなく、日本の産業、文化、そこに携わる人々のために自らも勉強して取材を継続したり、春馬くんの演技を見た人が影響をうけて、行動のきっかけになれることに喜びを感じたり。
第一線を走ってきていてもずっと「演じる事」の意味を考えていて、「自分達の仕事は、想像力を届けること」と伝える努力もしてくれていた。
そうやって周りの人に喜びや幸せをたくさん振りまいてくれているのに、「もっともっと」というところが、「何も見つけられない」といっている「僕」になんだか似ている気がしてしまったのだ。
でも今はみんなが春馬くんの残してくれた作品をずっと大切に愛して、それらをずっと語り継いでいき、春馬くんが考えてきたことを理解して、幸せそうに笑っていたら。
この歌詞にあるように、「そうそう、わかってくれた?」なんて言いながら、あの三日月の目と三角の口で、こちらの世界を笑顔でみていてくれたらいいな。。。そんな風に思ってしまう。
幼いころから芸能界で頑張ってきた春馬くんが「一番欲しかったもの」が、こういう事だったら嬉しいなって。
そして、こうやって何でもすぐに春馬くんに結びつけてしまうことさえも、「まあ、いいよ」なんて、ちょっとだけでも嬉しく思ってくれていたらいいのだけど・・・ね。