INFPが心的外傷への防衛反応としてINTPの仮面をかぶるケースの考察
まず冒頭でさっそくこんな事言って申し訳ないのだけれど、僕個人はINFPとかINTPとか、この手の分類にはあまり固執しないタイプだ。アンチとかではないけど、のめり込まないように敢えて程々に距離をとってるって感じ。
ただ、便宜上この手の用語を用いた方が第三者には通じやすいと思うので、本文ではINFPとかINTPというワードも普通に使って行きたい。
あと面倒なので(!)MBTIと16personalitiesは特段区別しない。
タイプ4とかタイプ5(エニアグラム)とかでもいい。各人が各人にとって都合のいいワードに脳内変換してください。
気付いている人は気付いていると思うのだけれど、INTP的な人間とINFP的な人間は、実は水のように溶けあっていて、区分けが難しい所がある。
「理論偏重人間」と「感性偏重人間」は一見交わらないような印象もあるのだけれど、前回のnote記事で述べたように、僕個人は理論と感性……理性と本能の2者は、蜜月関係にあると思う。
※↓当記事は以下の記事の続編なので、お暇でしたらば是非以下の記事もご一読くだしゃい
これは考えてみれば当たり前で、理論を着想する段階においては感性が不可欠だし、また理論を突き詰めていくとソマティック・マーカー仮説のように感性の重要性に行き着く事もある。「理屈で考えると、感情論も必要だ」という現象である。
そして感性を突き詰めていくと感性を霧散させないために理論が必要になってくる。これは文学などを考えるとわかりやすい。
ちなみに、理論を喪失し感性だけが残ったのが統合失調症だと言われる。統合失調症者の感性のみに依存した共感困難な言動を見れば、感性をパッケージングして社会に還元する上で理論がなぜ必要かが分かる。
例えば映画『ソナチネ』はかなり感性任せに作られた映画だが、本作が鑑賞に耐え得るのは、映画理論的正しさゆえである。
健常者(?)が敢えて精神病者の思考をエミュレートして超理論的芸術を生み出そうとした試みとしてアンドレ.・ブルトンの『溶ける魚』があるが、文学としては吐き気がするほど面白くない。
だからINTPとINFPは、遠いようで近く、場合によっては同一人物である。
他ならぬ僕自身がそうで、僕は記憶が正しければ20代前半ぐらいまではINTPだったが、それ以降はINFPに転じている。
これをもっと正確に言うと、僕は本来はINFPだったのに、二十代中盤になるまでずっとINTPを演じていたのである。
そして僕は、この理由をかなりしっかりと説明できる。
僕がINTPからINFPになった理由。ていうか、本来はINFPの僕がINTPの仮面をかぶっていた理由
1.INFP的感性を発揮する機会の喪失
結論から言うと心的外傷と機能不全家庭が故である。多分。
僕は機能不全家庭育ちでキツイ経験をしながら子供から大人になったので、そんな人生過程においては、僕はINFP由来の感受性を発揮する機会がなかったのである。
機能不全過程においては子供は子供らしく、自分らしく振舞う事が許されない。
例えばINFPの僕が綺麗なお花を見つけて「お花きれい」と言おうとしても、言ったら母がヒステリー起こすので(←あくまでものの例え)、言えないのである。
その結果機能不全家庭に育ったINFP児は己の感性を封印するようになっていく。
その代わり、機能不全家庭を生き抜くために、「どんな条件で母親は機嫌が悪くなるのか?」とか「なんかめっちゃ両親が喧嘩してるけど、こういう場合自分はどうするべきか?」とか考えるようになる。
或いは、あんまりにも辛い現実から脱出するために、徹底的に理詰めで今後の人生プランを設計するようになる。
この過程に際して、INFP的なフワフワした感性は出番がない。
徹底的に理詰めで、理詰めで。
ひとつ選択を間違えば誇張抜きで死ぬ可能性があるため、全てを理詰めで、詰め将棋のように人生を攻略していく。
するとどうなるかっていうと、その子供はINTP然とする。天然のINTPではないのだが、苦しい境遇を生き抜くために後天的にINTPっぽくなるのである。
この段階で、その子供(かつての僕)がMBTI(厳密には16personalities)などに興味を持ってwebサイトとかで診断してみると、INTPの診断が下りる。
2.外界から己の心を守るために、感情を殺し、理論で武装するようになる
一部上の内容とも重複するが、もうひとつ理由として挙げられるのが、心的外傷に対する防衛反応だ。
人生があんまりにも辛い事しかないために、そんな辛い日々をINFPの豊かな感性でそのまま感じてしまうと、間違いなくストレスで発狂する。
だから、そうならないために、非常に辛い境遇にあるINFPは敢えて心を凍らせて、その代わりにひたすら外界を「現象」「情報」として外科医のように淡々と解剖し分析し、対処するようになる。
「ぼくは虐待されている!親から愛されてない!誰も理解者いない!つらい!泣」というINFP感で生きていたらストレスで死ぬので、
「私は虐待されている(客観)🤓 」「私は親から愛されてない(客観)🤓」「これを一般に機能不全家庭という(客観)🤓」
「私の日々の不調は愛着障害に起因していて🤓、毒親についてはスーザンフォワードの著書に詳しくて…(客観)🤓」
「怪我した。流血してる。こういう場合はこういう風に処置🤖」
「頭打った。頭を打ち私は痛みを感じている🤖」
「母はこうこうこういう性格なので、こういう風に接すると比較的安全🤖」
「父はこうこうこういう性格なので、こういう風に接すると比較的安全🤖」
「両親離婚🤖」「これでひとまず喧嘩の騒音減る🤖」
「夕陽。世間一般に、こういう光景を綺麗と定義するらしい(客観)🤖」
「今後の人生設計を容易にするために自己分析する🤖」「16personalities(MBTI)する🤖」
「診断サイトいわく、我INTP🤖」
「我INTP🤖」
と言った感じで、自分をINTPだと思ってるINFPが爆誕する。
そして、実は必死に心を殺しても外界から受けた心の傷を肉体はしっかりとキャッチしており、本人も知らない内に潜在意識ではどんどん心的外傷が重症化していく。
その結果抑うつや場合によっては各種炎症などの原因不明の慢性不調に苦しむようになる。
無論僕は医者でもなんでもなく上記の内容はあくまで僕個人の体験談だが、ひとまず、僕はこういった過程と原因で、INFPでありながら、後天的にINTP的になったのである。
僕がINFPに戻るまで
で、じゃあ、そんな僕が如何にして再びINFPの気質を再獲得したのか。
これについてはぶっちゃけ相当の道程を経た。
まず僕は上述のように正体不明の慢性不調や強い希死念慮に苛まれるようになったわけであるけども、知識に乏しい若い時分は、コレの原因が皆目見当がつかなかった。
しかし長い時間をかけて愛着障害がどうだとかアダルトチルドレンがどうだたとかインナーチャイルドがどうだとか鬱病がどうだとか毒親がどうだとかHSPがどうだとか発達障害がどうだとかギフテッドがどうだとか、メンヘラフルコースみたいな分野を徹底的に調べ尽くしていって、思い当たる不調の要因をしらみつぶしにしていって、
岡本太郎の本とか山口周の本とか自己啓発書なんかも沢山読んで、
僕と似た生い立ちの先人達の生活史を可能な限り調べてケーススタディをして、時に反面教師にして、
そうした過程で自然と自分の潜在意識に抑圧され格納されたトラウマや感情に気づいて、
「そうか、僕のINTP的な理論偏重は、子供時代の辛過ぎる体験を抑圧し、正当化し、現実から逃避するためだったんだ」
「僕は僕の事をロボット🤖のような人間だと思っていたけど、これは心的外傷への防衛反応で感情スイッチが一時的にOFFになってしまっただけで、本来の僕は非常にエモーショナルな人間だったんだ」
と“直感で”気付き、*
「じゃあ今後の僕はINTPという偽りの自分を捨てて、本来の自分に回帰しないといけないな」
と直感で考え、
自然と感情で物事を考えるようになった。
*リアルタイムでは自身の変化を論理的に説明できなかった。その時々で自分に役立ちそうな情報を必死に集めて回って、結果的に今の僕に至っているって感じ
それで、長い時間を掛けて徐々に、自分でも気づかない内に、本来のINFP的な人間に戻っていった。ていうか今も戻ってる最中かな。
それで、ある時MBTI診断をしてみたらINTPではなくINFPと出て、あれ???ってなった。
そんな感じだ。
僕の辿ってきた道程は複雑すぎるので、残念ながら再現性はない。
僕が思うに、結局各々が各々なりに懸命に自助努力するしかないのかなと思う。
各々によってどんなトラウマを抱えているのかとか、重症度の多寡とか、あらゆる面で事情が異なるので、「こうすれば救われますよ…😇」的な単一のノウハウを提言する事はできない。
「僕はこうした」「僕はこうだった」としか言えない。
ともあれ、こんな感じで、自分はINTPだ自分は理論派だ、「自分は感情を排して論理的に思考する事ができます」と思っている人が、実は過去のトラウマで一時的に感情を失ってるだけで、本当はINFPだったり超感性派の感受性バリバリロマンチストだったりするケースってままあるよね~っていう、そういう考察でした。
個人的に強いて付け加えるなら、INFPのまま突っ走ってきたINFPと違って、いったんINTPを経由したINFPは、理論の大切さも分かっているので、その面である種の盤石さを有してるんじゃないかなとは思う。
そこを武器にできるといいかもしれない。
おわり。