無料塾の「やる気問題」には、大人の視野を広げることが大切!
今回も無料塾本に関連して。
本では、多様な無料塾の姿を、できるだけフラットな姿勢で書きたいと思ったので、いくつかの課題に対して個人的な見解を書くのを控えましたが、noteではその控えた思いを書きたくなってしまいますね。
さて、ひとことで無料塾といっても、そのやり方は様々で、たとえばこんなのがあります。
●高い偏差値の学校へ進学を目指す子どもを対象に、入塾条件に成績基準も設けている無料塾
●子ども食堂などと併設し、居場所機能を重視した無料塾
●入塾というより、空いている日に予約をして勉強を教えてもらいに来られる無料塾
●プログラミングや課外学習などもガンガンやる無料塾
●学校の中で補習クラスのように開催されている無料塾
どういう形で運営するかによっても、運営者が教育や経済格差の問題、子どもたちの実情をどのようにとらえているかというのが見え隠れします。いろいろあってOKだと思います。なので本では「無料塾とはこうだ」と断定したくなく、フラットな姿勢を保つように堪えました(まあ、思いがにじみ出ちゃってるとこもありますが)。
無料塾は本当にいろいろあって面白いんですが、受験を支援している無料塾の場合は、私個人としては、下記はデフォルトだと思っています。
●進学先になり得る近隣の学校情報をある程度得ていること
●学校のテストや模試などをしっかり分析して生徒個別に受験対策を考えられること
●入試の過去問などを代表やスタッフたちが実際に解いて分析できていること
まあでも、マストでやるべきことはこれくらいなので、そんなに負担ではない気もします。(ただ私は理科の過去問だけはあんまりやりたくない……苦手……!)
で、そうやって無料塾を頑張って立ち上げてみると、最初に結構この壁にぶち当たることが多いのです。
「生徒たちよ……やる気はどこいった!?」
これは多くの無料塾が経験していることで、運営者同士で話しているとしょっちゅう持ち上がる話題です。無料塾本にもそのことを書きました。
ボランティアで子どもたちの力になろうと参加する大人たちの目の前で、遅刻を繰り返したり、鉛筆を持たずにスマホゲームに没頭したり、用意した宿題をやってこなかったり、毎回教えていることを毎回忘れられてしまったり……。そんな子どもたちの様子を目にして、ときに苛立ちを覚えてしまう大人もいます(人間ですもの)。
なぜそうなるかというと、本の中ではこう書きました。
無料塾に来る生徒の中には、自宅にじゅうぶんな勉強環境が整っておらず、それによって勉強習慣が身についていないという子も少なくありません。苦手意識のある勉強をやれと言われても、「嫌だなあ」と思う生徒は多いのです。
それで、私はこう思うのです。やる気がない(ように見える)子どもたちに苛立ちを覚えるのは、私たちの視野が狭すぎるからではないのかしら、と。
勉強がそれほど苦ではない環境に育ってきた場合、この「嫌さ」を理解することは難しくなります。親が本を読んだり文化的な話をするのが当たり前だった家とか、小さい頃から本や地図が身近にあったり、辞書や参考書を手に入れるのが簡単だったり、「大学に行くのが当たり前」といった価値観の家で育ってきた大人にとって、そういう学習に向いた環境のない家庭の中で育ち、いきなり「勉強しろ」と言われる子どもの気持ちを理解することは難しくなります。
で、根性論に逃げます。「やる気が足りないんじゃ!」。でも……。
「やる気」というのは目には見えづらいものです。また、人間ですから波もあります。入塾時の面談で、いくら「勉強を頑張りたいです」という言葉を引き出せたとしても、しばらくしたら「やっぱりつらい、逃げたい」と思うこともあるでしょうし、そういう時期を経てまた「頑張ろう」と思うこともあります。もしも、なかなか目に見える形でやる気を見せてくれないようでも、「嫌だ嫌だと言いながらも毎回参加してくる」こと自体が、その子にとってはやる気の表れであることもあります。
学校でテストの点や通知表で評価され、「君はもうちょっと頑張らないとダメですね」といったプレッシャーを与えられてきた子どもが、無料塾にきたら今度は「やる気」を評価される。なんだかちょっと気の毒な話ですね。
でも、やる気を出してほしいという気持ちを持つなというわけではなくて。
主体的に学習に向かう姿勢を自然に身につけられる環境を、無料塾がつくってやればいいんじゃないの?と私は思います。
そもそも主体的な学びがやりやすい環境にない子どもたちが来るのであれば、その環境を整えることが重要かな、と。
たとえば、身近な大人が主体的に学ぶ姿勢というものの手本を見せること。新しいことを学ぶことにワクワクしている大人たちが身近にいれば、子どもたちにもそれが伝わるのではないでしょうか。
私は、子どもの頃からよく大学の文学部の話を聞かされてきました。こんな教授がこんな講義をして、素晴らしかった。あの教授の本が面白い。今もこんなのを出している。さらに、平家物語とかの古典から現代の小説までいろいろな本が家に並んでいて(トイレには源氏物語)、時代劇を見ながら日本文化の歴史みたいな話を両親はよくしていました。そういう親に日常的に接していると、やっぱり自然に文学に興味を持ったりしてしまいますよね。結果、得意科目は数学でしたが、私が学びたいと思って大学で専攻したのは、文学のほうでした。
親だからより強く影響が出たのだと思うのですが、親が忙しくて家にいられないとか、日々の暮らしに手一杯で新しく学ぶことにチャレンジできないという場合は、他に身近な大人が影響を与えることもできるのではと思うのです。
勉強をやらせる、学ぶことを強いるのではなくて、いろんな大人たちが、新しくいろんな知識を得たり、物事を探究したりすることを楽しんでいる。そういうのを定期的に目にしていくと、子どもたちの価値観も少しずつ変わってくることがあるのではないかなぁと思うのです。「勉強嫌い」から、「知らないことを知るって面白いのかも」くらいに思ってもらえたら、それは大きな進歩なのでは。
ただ、そういうことをしていくには、無料塾がただ「この問題を解いてください」といって勉強をやらせて、解説をして終わり。というだけの機能だと難しいですね。生徒たちが「身近な大人」と感じられるような距離まで、近付いていくことも大切かなと思います。
で、わざとらしく大人が知識をひけらかしたり学んでいることをアピールするのではなくて、普通に「自分のために」学ぶことをやめないということ。
子どもは、親や社会の大人たちをよく見ています。自分自身については何もアップデートしようとしていない大人たちが周りにいたら、「なんだ、勉強ってのは結局いい学歴を得るためだけのものなのか」みたいな価値感に留まってしまいます。だって大人たちがみんなそうなんだから、って。
子どもたちにやる気がないように見えて、ついイラっとしてしまう場合には、自分自身を見直してみるほうがいいような気がします。
●自分はその子を理解しようとして見ているのか
●自分の常識にとらわれすぎていないか
●自分自身は、自分のために何か学び続けているのか
「やってやってるんだからやる気や成果を出せよ」と相手を評価して自分の満足につなげるのではなく……、“共に”学んで、考えていくことができたらいいなと思います。