見えにくい目は、見えないものを見るためにあった。
note の空気感に惹かれ、
ほかのブログからお引越ししてきました。
書いている人が純粋に自己表現を楽しんでいるところや、競争の意識がないところ。
そして地味に「いいなぁ~!」と思ったのが、アカウントを持っていない人でも「いいね♡」が押せるところ。
ブログを書き続ける中、自分がなんとなく「こうだったらいいのになぁ~」と思っていたことが、note というサービスでは見事に具現化されていました。
だから、
2020年も暮れようというこのタイミングで、
土の時代から風の時代へと変わるこのタイミングで…
自己表現の場を移すことにしました(^-^)
note では、、、
「書く」ことに集中するつもり!
何を「書く」のかと言うと、
目で見ることができないもの。
私は小さいときから視力が悪くて
しかも鳥目だから、
周りの人よりも「見る」ことに苦労してきた。
眼鏡やコンタクトを付けても、
見えにくいものは見えにくくて。
部活のナイターなんて
コンタクトを付けても見えにくくて、
週2回の練習が苦痛で仕方なかった。。
ナイターだけでなく、ソフトボールは
ボールを追わないといけない競技だから、
私との相性は最悪だった。
(それなのに、なぜ中高6年間もやっていたのだろう…自分でもよく分からない)
みんなのようにボールが文字が景色が、
見えない自分が嫌で嫌で。
矯正しようと手術までしたけど、
一時的には良くなっても、
結局見えにくい目に戻ってしまう。
視力が良い友人が羨ましくて仕方なくて、
私にとって目が良いことは
何よりも価値があるように思えた。
でも最近になって、この見えにくい目も、
やっぱり自分で選んできたのだと腑に落ちて。
というのも、私は
目に見えるものはうまく見えない一方で、
目に見えないものを見ることができるらしい…
ということが分かってきたから。
それは、私がこれまで頑なに
隠してきたことだった。
無意識に。
子どもの頃から、自分が見ている世界と、
周りが話している世界が乖離し過ぎていて、
困惑していた。
東京にいたときはまだよかったけれど、
田舎に引っ越してからはそれが
より顕著になっていき、
そのうち、私はこう考えるようになった。
「私の頭の中をみんなに知られたら、ヤバい」
何がヤバいのか?
自分でもうまく説明できないのだけれど、
ただ「知られてはいけない」という強迫観念が
いつの間にか私の心に巣くっていた。
その結果、どうなったか?
私は、どんな場面でも
「自分の意見を言わない」ことを
徹底するようになった。
だから、大学の授業で、
ボランティア団体のミーティングで、
職場の教務会議で…
自分の意見を求められてはだんまりを繰り返し、
そのため人生で度々
「あなたの課題は、自分の意見を言えるようになることね」
と言われてきた。
「頭の中を知られたらヤバい」って、
まるで誰も思いつかないような、高尚なアイデアが溢れているように思えるかもしれないけど、
もちろんそんなことはなくて。
より正確に言うなら
みんなと真逆のことを考えていて、
真逆過ぎるが故にどう伝えたら伝わるか分からなくて、
結局「伝えない」を選択する…
というような感じだった。
伝える術を持たなかった、
どのように表現すれば伝わるのか分からなかった、
とも言える。
今思うと、その真逆というのが、
目に見えるものを見ているみんなと、
目に見えないものを見ている私
ということだったのかもしれない。
目に見えないものというのは、具体的に言えば
「流れ」や「空気」、「想い」、「エネルギー」みたいなもの。
霊視ができるわけではなく、
物理的に何かが見えるということではないのだけれど。
でもここで挙げたような
具体的な形を持たない何かを見る、感じ取ることを、
思えば私はずっとずっと意識してきたような気がする。
そして大人になった今思うのは、
大事なことほど、目に見えにくいということ。
見にくい=醜い として
片づけられてきた大事なものが、
きっとこの世界にはたくさんある。
だから、note では
物理的なものはうまく見えないこの目で、
私に見えている世界というのを、
言葉に落とし込んで伝えられたらいいなと思っている。
目には見えない、あるいは見えにくいものを、
「書く」ことで可視化する、形にする、ということにチャレンジしたい!
この人生で散々言われてきた、
「あなたの課題は、自分の意見を言えるようになることね」
という言葉。
まだまだブロックを感じることはあるけれど
「これ知られたらヤバいな」と思うところこそ、
書いていきたいな。
ということで、
これからどうぞよろしくお願いします♡