211007③ 正解がないという絶望
ここのところずっと調子が悪い。
体調がすごく悪いわけじゃないけど、なんかずっと自分の中に重たいものがもやもやと居座っている感じがした。
今日、久しぶりに尊敬している珈琲屋さんに会いに行ってきた。
そんなにたくさんの言葉を交わしてはいないのだけど、すごく大切なことばを今日ももらった気がする。
そこから今までのもやもやがするすると軽くなった。
「根拠がないことが1番大事」
最近悩んでいたのは、他でもない自分の将来のことだと思う。
まだ何者でもなく、これからも何者でもないかもしれない自分に大きな不安を感じていた。
この間「自分がどう在りたいか」問われる機会があってから、どうありたいかわかっているような、わかっていないような自分にモヤモヤしていた。
「自分がどう在りたいか」
多分私はこっちの方向に行きたいんだろうな、というのはぼやーっとだけどわかりはじめている気がする。
でもまだ、反対側の方向も捨てきれないよな〜、とか、どちらかの方向に振り切らなくたっていいし、塩梅だよな〜って思っていて。
この社会にはまだなんとなくその方向性の最適解があると私は考えている。
評価とか実績とか経験とか、数字に支配されたもの。
ある程度、前者の社会的に評価されるという最適解に頼ってしまいたい自分と、そんなの嫌だと思っている自分が同居していた。
これから先、たぶん、なんとなーく、でも生きていける。なんとなーく、社会かあぶれないように、最適解からはずれすぎないように。
でも、それは最適解なのかもしれないけれど正解ではないと私は思う。
「根拠がないことが1番大事」
こんな言葉を紡ぐ珈琲屋さんを私は割と真面目に尊敬している。
たぶんこの人も社会の最適解にあてはめた生き方はしていないと思う。でもこの人は自分のものさしがある。だから、根拠がないことが1番大事だ、という言葉を口にすることができるのだ。
この珈琲屋さんはじめ、こうやって自分のものさしをもっている、素敵で尊敬する人達を私はたくさん知っている。
「それ以外の素敵な選択肢がたくさんあること」を知っている私には必然的に、ほかの選択肢と向き合って考えなければならない。
最適解しか選択肢がなかったら、疑うことなくそれを選ぶのだろうけど、比較対象である選択肢をたくさん知っている私は、ちゃんと向き合って選ぶしかないのである。
もうこの時点で最適解をなんとなく選ぶ、は選択肢にないのだと思う。
私が私の正解を見つけるしかない。
絶望だ。
誰も正解を与えてはくれない。
誰かに与えられた正解ではきっと私は幸せになれない。
誰かが正解っぽいもの、を与えてくれることに期待していたのかもしれない。いや、してないかな?
わからないけれど、何が正解って誰かが教えてくれるものじゃない、というゆるぎない事実に、とにかく絶望した。
絶望したからこそ覚悟が決められる。
私の正解は私が見つける。
だからこそ、根拠がないことが1番大事なのだと思う。