人間も自然界の一部に過ぎない・・・東林院で米粒7つ、鳥に施す
京都、妙心寺の塔頭・東林院さんで毎年1月15日から31日に行われる「小豆粥で新春を祝う会」に出掛けたときのことです。
最初に、本堂に案内されてお参りの後、祝い菓子が供されます。
凍てつく底冷えの京都でも、ここは暖房を効かせていただいており、ぬくぬく。糖分が頭にも周り、ほっこりして眠たくなってきます。
しばし待っていると、「奥のほうへ」と誘われてお庭の見える広いお座敷へと通されます。
すぐに運ばれて来たのが、写真の御膳。
箸を取る前に、こんな説明を受けます。
「小豆粥のほんの少しばかり、7粒ほどを箸でお取りいただき、この「さば器」に載せていただけないでしょうか。
皆様のそうした施しを集めて、庭にやってくる小鳥や小動物に施すのです。
それを、禅宗の食事の前の習わしで、「生きる飯」と書いて「生飯(さば)」と申します」
目の前に置かれた「さば器」は、木でできたチリトリでした(写真)。
ゆるゆるに炊いた小豆粥なので、7粒を数えるのも難しく、一口分の粥を摘
まんで「さば器」に載せました。
なんだか、心が広く豊かになった気分がするから不思議です。
この時、ハッと思い出したことがありました。
もう20年以上も前のことです。
奈良の春日大社に参拝に訪れた際、友人の紹介で葉室賴昭宮司にお目にかかる知遇を得ました。葉室宮司は藤原北家勧修寺流の流れを汲む第38代葉室家当主で、形成外科医院の医師であるとともに宮司であり、多数の著書で人々を幸せに導いておられるという稀なる方です。
応接室に案内されると、窓の外を見やって開口一番にこうおっしゃいました。
「人間も自然の一部なのですよ」
「生き物」の中で、人間はなんでもできると思い込んでいる。
食べるため、儲けるため、自然を破壊しつくして来た。
しかし、その人間も自然の一部分にすぎない。
生きる上で、まずそのことを自覚することがもっとも大切なのですと。
神道家であるとともに、医師と言う科学者、そして作家の言葉がゆえに重みがありました。
その面談中のことでした。
目の前に黒いハチが飛んで来ました。
開いている窓から迷い込んで来たのでしょう。
スズメバチではないようです。
話を伺うことに夢中になっていたら、チクッと足の脛が痛みました。
ハチに刺されたのです。
普通なら、そのハチを退治するか、そうでなくても、窓を大きく開け放って外へ追い出すでしょう。でも、葉室宮司さんもお付きの禰宜さんたちも、慌てることもなくハチをそのままにしていました。
「手当してあげて」
とおっしゃると、一人の禰宜さんが薬を持って来て塗ってくださいました。
なるほど、と思いました。
人間も自然の一部。
ハチが棲んでいるところに、神社と住まいを建てて暮らしているのです。 その立場に上下はないはず。
一匹のハチに慌てず動ぜず、淡々と話を続けられる葉室宮司の言葉に耳を傾け続けました。気が付くと、いつの間にかハチは窓から出て行きました。
「生飯(さば)」。
自然に対して、あらゆる生き物に対して、施しの気持ちを忘れずに生きたいと思ったのでした。