フェードル
恋はするものではなく落ちるもの
そんな言葉を耳にしたのは
いつ、どこでだったか
「フェードル」はまさに
「恋に落ちた」
いや
「恋に堕ちた」人の
狂おしい情念とパワーで
様々な人や関係を破壊する物語だ
国王である夫・テゼの先妻の息子であり
自分にとっては義理の息子にあたるイッポリットに
恋い焦がれて苦しみ
わずかに残った正気の中で
彼女は自らの命を絶とうと試みるも
乳母・エノーヌによって引き留められ
ついにはイッポリット本人にその思いをぶちまける
そもそもテゼの浮気性
(いや、甲斐性と言うべきか)
によってあちこちに愛を契った女がおり
娶った妻もいわくつきであるという部分が
発端になっている話なので
フェードルが主人公であるが
登場するすべての人が主役であるとも言えるだろう
そもそもこの話はイッポリットが主役だったものをベースにして
フェードルに焦点を当てて書かれたものだそうだが
作者が複数おり、作品自体も書き直されたりしているらしい
フェードルは怪物なのか
彼女の狂おしいほどの情念は
実は誰にでも潜んでいる「可能性」だと思う
それを出すか出さないか
飼いならすことができるか
欲望に忠実になりすぎるのか
そこが岐路になるのかもしれない
フェードルは人妻であり母親でもある
不義密通はいつの時代も非難の対象だ
我が子にまで及ぶであろう「堕落者」の烙印を恐れ
それでも消すことの出来ない恋の炎に
自らが焼かれてしまうことを
嘆き悲しみながらも
様々な感情に動かされて
内なる「怪物」に支配されていく
ただしフェードルは片想い
イッポリットもまた禁じられた恋に身を焦がし
そのせいで父に歯向かうことになると苦しみ
それでも消せない恋の炎に焼かれている
イッポリットの相手は
父の敵の一族であるという理由で囚われたアリシー
その血を継ぐものを残すことを禁じられた王女だ
ロミオとジュリエットのように
敵対する若い男女の
清らかで気高い恋が
やがて愛に昇華していく様が
フェードルのドロドロとした感情との対比になっている
フェードルはもとはとても慎み深く常識的な女性だと思う
夫がいる身であり
さらに恋の相手がその先妻の息子であることを
フェードル自身が恥じている
だからこそ彼女は自身の口から
忌まわしい告白をしなくてもいいように
命が尽きてしまう事を願い
食事も睡眠も拒み続けていた
受け入れてはくれない相手と理解しながらも
止められない想いに狂っていくフェードル
イッポリットが誰にも恋心を抱かず
むしろそれを嫌悪する青年であることが
彼女の一筋の光であった
彼がアリシーに恋をしていると聞かされるまでは
嫉妬は恋心を燃え上がらせる
誰にも心を開かない無骨な青年だから
自分の恥ずかしい恋ですら
実らない事を受け入れていたのに
実はちゃんと相手を受け入れる心を持っていた事に対して
怒りが全身を襲う
自身が裏切っている夫に頼んで
恋敵を亡き者にしようとすら考えるほどに
彼女の中に僅かに残る「理性」は
徐々に蝕まれ、後戻りできなくなり
関わる全ての人の運命を狂わせる様は
恐ろしくもあり憧れる部分だ
障害となる夫の訃報に喜び
玉座を先妻の息子に譲ることで
自身の想いを遂げようと考え
夫が帰ってきたことで再び地獄へ突き落され
恋敵がいたことに怒り狂う
フェードルの心が千々に乱れて
自ら命を絶つ最期は圧巻だ
乳母エノーヌは少々お節介な母親のようでもある
自身が育てたフェードルの狂っていく様を
悲しみながら支え、励まし、生きる事を願う
そしてイッポリットを悪者に仕立ててまで
フェードルを守ろうとした
それが結局、フェードルの怒りを買って
自ら海に身を投げる結果になる
エノーヌもフェードルも
命を絶つ決心をした時には
上着やベールを引きずっていた
イッポリットが非業の死を遂げた後
駆けつけたアリシーは恋人の無残な姿を見てしまう
そして呆然自失でイッポリットの服を引きずりながら現れる
影の様にも見え
引かれる後ろ髪にも見え
亡き者の姿にも見えるその演出は
4回の観劇では答えが見いだせなかった
だけど私にとってはその場面が印象的で
これからも考え続けるかもしれない
恋は黙っていられない
秘めた恋だったとしても
ふいに口をついて溢れてしまう時がある
最近は不倫の恋が話題になることも多いが
黙っていればバレないものを
わざわざ口に出してしまうのは
傲慢な心なのか
それとも罪を見逃せない神の罰なのか
「フェードル」は神々のチェスのように見える
ラシーヌの戯曲の冒頭では
語り部である進行係に
恋をドラマチックにするためには
ちょっとした仕掛けが必要だと語らせている
自身の不倫を夫にバラされた恋の女神が
告発者の一族の女たちに呪いをかけ
フェードルはその一人であった
全ては板の上で動かされている駒であり
勝敗がはっきりするまでの神々のゲーム
翻弄される登場人物たちの悲劇
命を落としたイッポリット、フェードル、エノーヌよりも
実は残された父・テゼが一番不幸なのではないか
彼の目が耳が
もう少し真実を見極めるものであれば
王子を失う事もなかっただろう
果たしてテゼはほんとうにネプチューンに守られていたのだろうか
彼の願いが聞き入れられたことで
彼の悲しみは未来永劫消えることがなくなった
実は憎まれていたのではないか
アリシーの台詞に
そういう意味のものがあるのだが
王として君臨する彼もまた孤独なのだと感じる
その後を調べると
テゼもまた天寿を全うすることなく殺害される
その跡をフェードルの息子が継いだことになっているようだ
この物語はとても深い
様々な解釈や余韻を与えてくれる
元となるラシーヌの戯曲を読み
観劇した今でもまだ
心の中にじわじわとフェードルの狂気が広がる
父の様に立派な勇者になりたいと憧れていた青年は
自らの死と引き換えに
怪物を宿したフェードルを退治した
フェードルもまた、彼に退治されることを願っていた
破滅的な恋ほど甘美で狂おしいものはない
身をやつして恥をさらすような結果になっても
狂う自分に戸惑いながらも
その恋に夢中になりのめり込む
実際にそんな恋をする機会はそうそうない
だけど憧れでもあり
自身の中に眠る「可能性」に怯えながら
その甘くしたたる果汁を一口含みたいと
願う気持ちがあるのではないか
自身が抱える「心の闇」が露呈する瞬間
それを実は少し楽しんでしまうのも
人間の愚かな部分なのかもしれない
だからこそ「フェードル」は
300年以上前からずっと上演され続けているのだろうし
観たもの、読んだものを魅了するのだろう
再演をして欲しいと願う
今回、観劇を断腸の思いで諦めた方々にも
是非、生であのフェードルの迫力を感じてもらいたいと思う
そして主演の大竹しのぶさんがカーテンコールで何度も語った
「今、演劇は必要なのか」という問いに
私は「必要です」と叫びたい
人と会う事を制限され
行きたいところへ行けず
観たいものも観る事が出来ない状況は
じわじわと人の心を蝕んでいく
そこには差異が生まれ
人の心が離れていく様子もうかがえる
だけど見知らぬ人とはいえ
同じ空間で同じ舞台を観て
同じ感動を味わった人たちとの一体感は
まるで昨日からの友人のようにも感じる
兵庫は13日のマチネが最高だった
カーテンコールは観客によっても
少々雰囲気が変わるのだが
自然発生的に拍手が手拍子に変わり
しのぶさんもそれに合わせて手拍子をして
会場全体が一つになったような
そんな気持ちになれる瞬間だった
俳優だけではなく
観客もまた劇の一部なのだと
感じる瞬間でもあった
14日のマチネは兵庫千穐楽
まるで大千穐楽のように
演者の皆様一人一人の言葉を聞くことが出来た
どうぞどうぞ、としのぶさんに促され
ぽつりぽつりと語り始めた林遣都くんは
最後に「みなさんも、お仕事とか…生活とか…頑張って下さい」
と締めくくって会場が笑いに包まれた
彼の意表を突く言葉は
一瞬、あっけに取られてしまう事も多いが
実は彼の中にある
熱い気持ちや優しい心
自身の言葉に出来ない想いがいつも込められていると感じる
言いたい事を上手く表現できないからこそ
筋書きのある世界の中で
彼の演技は常に情熱的で
「役の代弁者」となるのだろう
昨年観劇した「風博士」の時よりも声の通りは良くなっていた
作品の趣にもよると思うが
彼自身が自分に合っていると言ったように
ギリシャ悲劇のような演劇は
彼の真骨頂である「苦悩しながらも沈黙を保つ」演技と相性がいい
とはいえ、やはり「舞台人」としてはまだ駆け出しである
こちらが圧倒されて言葉も出ないくらいの存在感は
舞台上ではまだ弱いと感じる
岸井ゆきのちゃんや大竹しのぶさんは
身体は大きくないのに
舞台に立った瞬間の存在感と大きさは
息を呑むほどだった
大地真央さんのミュージカルは
終始圧倒され続けた
遣都くんは映像作品では文句なく存在感とその大きさが感じられる
彼が出てきた瞬間の映像の華やかさと空気の締まり具合は
語ることもないだろう
それを舞台上でも発揮して欲しいと願う
今後はどんどんと力をつけ、共演者から吸収し続け
大きくて威圧感のある役者になって欲しいと思う
彼が20年後くらいに「テゼ」を演じてくれる事が私の夢になった
東京公演が2日分中止になり
実際の初日が再販による収容人数を抑えた状態で幕が開いた
途中で幕が開かない日が来るのではないかという不安や
観客がゼロなのではないかという恐怖と隣り合わせの中で
自らもリスクを冒しながらの公演
今回は演じる方も観る方も
特別な毎日になったことは間違いないと思う
無事、大千穐楽も迎え、配信もあったが
今回観る事が出来なかった皆様も含めて
是非、再び生で観劇するチャンスをいただきたい
劇場に活気が溢れる日常が当たり前になりますようにと祈る