鹿浜鈴之介という人

「初恋の悪魔」が最終回を迎えて、もう10日経とうとしているのに、その余韻はまだ薄れる事がない。
自分の気持ちを満たすためだけにこの作品について書き残していこうと思う。
「エゴだ」ときちんと自己申告しておけば、鈴之介氏も許してくれるだろう。

最終回を見終えても、まだ考える事が多い作品というのは、人の心に残り続ける。
伏線と思われた箇所の謎解きが終わっていないと感じるとそれもずっと燻ぶり続ける。
もしかしたら作者はそれを「伏線」とは考えていなかったかもしれないし、そもそも人間そのものが「謎」な生き物なので、それは多分、本人にならない限り解けないものなのかもしれない。

鹿浜鈴之介は凶悪事件マニアという一見するとただの変人と思えるし、実際に1話終了後は「気持ち悪い」という感想が多々見られた。
それを予見し、回収するかのような3話の「君は人から気持ち悪いと言われたことはないだろう?」という台詞に、凍り付いたり畏れを抱いた人も少なくなかっただろう。

このドラマの決め台詞に「マーヤーのヴェールを剥ぎ取るんだ」がある。
現実世界は幻影(マーヤー)であり、真実の世界を覆い隠している(
ヴェール)とされる哲学の言葉だが、とても単純にその言葉を受け取ると、
犯罪を隠すために犯人が施す工作を見破り、真実を見抜け、ということになると思われる。
実際に、捜査権を持たない4人は独自の視点で考察を繰り返し、事件の真相を見破っている。

ただ、この言葉の意味は深く、キャッチーな決め台詞という側面だけではなくて、この物語のベースになる考え方なのではないかという気がした。
哲学書を読んでみないと私の推論が正しいかどうか判断できない部分もあるが。

幼少期より周りの子供達と少し違った趣味を持つ鈴之介氏は、友情も恋愛も全て持たないように、関わらないように生きて来た。
シニカルな言動を繰り返し、わざと相手を遠ざけようとしながらも、実は一番愛を欲している人なのだと思うシーンが度々ある。
他人とのかかわりを極力避けてきたために、距離感が上手くつかめない鈴之介氏は、言い合いになったり、侮辱されたとへそを曲げても、謝られたら被せ気味に「いいよ」と反応する。
彼が実は人間嫌いなのではなく、ほんとうは興味津々なのだと思えるのだ。

ただ、受け入れられなかった時の絶望と期待を裏切られた時の哀しみが彼を頑なにさせる。
そして「変人」というヴェールをかぶり、人々に幻影を見せているともとれる。

人間誰しも、人と接する時に、ある程度作ったり相手の望む自分を演じたりすることがある。
真実の自分はそうじゃないと思いながらも、誤魔化し続けていると、それが真実のように思えてくることもある。

鈴之介氏は凶悪事件マニアだが、凶悪犯というのはサイコパスであったりソシオパスであったりすることも多いが、それ以上に人間の欲望に忠実過ぎる故の犯行であったりすることも多いので、理性が強い人よりは妙に人間臭く、時に魅力的に思えてしまうこともある。
そういう人間の「エゴ」に魅力を感じているから、凶悪事件が好きになったのではないかと思う。

事実、彼は人の失敗やエゴに対してとても寛大だ。
器が大きく、自身の出来ることなども正確に把握していると思われる。
それが話を追うごとに明らかになっていき、最初の「気持ち悪い」という感想から最終話では「優しくて素敵な人」という感想へ変わっていった。

「変人」というヴェールは徐々に剥ぎ取られ、彼の真実が明らかになった時、「鹿浜鈴之介」を魅力的な人間だと感じた人がたくさんいる。
この役を「林遣都」という俳優に演じさせようと思った坂元さんは、素晴らしい。

遣都くんが演じる役は、どれほど酷い性格でも、醜い欲の塊でも、変人でも、何故か嫌いになれず、その芯にあるもの、そうなってしまった経緯が目線や身のこなしで伝わってくる。
まさに彼の演技そのものが「マーヤーのヴェールを剥ぎ取る」とも言えるだろう。

今見えている目の前の人の性格には理由がある。
そうなる過程が必ずある。
「イヤだ」と思う気持ちだけで本質を見る事がなければ、問題は解決できない。
そう思わせてくれる作品であり、遣都くんの演技だったと思う。

そういう意味では、あの作品のメインテーマは鹿浜鈴之介のヴェールを剥ぎ取るものだった、と言えるのではないかと思っている。

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