我と彼は全く違うが、間違いなく続いている ~ 1964年は明治97年
アレとソレが似ている、という事が面白いように、
我々と先祖は違った、という事が面白い。
先祖の人生はおよそ、暗く、辛く、寂しく、短いのだ。
それでも繋いで繋いできてくれたので、
今、私達は時を共有していられる。
幕末が好き、という時に、1860年代を愚直に思うべきだ。
今より少し何かがない、のではない。
電気もなく人権もなくほぼ薬もなく安定した明かりもなく、徒歩以外の移動手段も粗方ない。シャンプーも鉄骨も日曜日もティッシュも舗装路もない。
米を噛むと動く箇所を称して米噛み(こめかみ)と呼ぶようになるほど、飯は強飯(こわめし)が普通でいまのご飯よりうんと硬いものだった。
酒は、今ほどの度数は出せず、製品として安定もしていない。
夜の町明かりは月明かりが頼り。誰でもが提灯を下げるものでもなく、誰そ彼時から彼は誰時まではおよそ夜目を効かすしかない。家屋の中で灯りをとりたく百目ろうそくを立てても倒れる時は倒れ、すぐ類焼、大火となる。
怪我や病もどれも致命傷や終生のものとなりうる。
そのようにして命からがらつないできた果ての今。
かつての暮らしや人生を、令和の日本人が安直に「クーラーや電車や洋服がないだけで人間は今と一緒でしょ」と決めつけるべきではないと思う。
なのだから、違う時代を生きる両者に歴史を貫く普遍的な感覚など、ほぼないはずだ。
しかし。なのに間違いなく地続きなのだ、と思う。
眠りと死が違うように、過ぎ去ることは消失ではない。
思い出せない見たはずの夢の続きに、今朝の自分も今の自分もいる。
そのような関係性で、江戸もそれ以前も令和に続いている。ファンタジーとしてではなく。
時代ごとの分断性や変移を記す年表ではなく、連続性や重層性を顕す年表。
きっとそんなものも、すでにどこかにあるのだろうか。
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