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『あの子のこと』(30)「ドッグタグ」

 陽さんのマンションの玄関からは、ほこりをかぶったベビーカーが消えていた。
 私にわだかまっていた思いをぶちまけた事で、いくぶん心の整理がついたらしい。
「あれから模様替えしたんですか」
 リビングのカップボードは跡形もなく消え去り、オフィスで良く見るパーテーションでリビングが区切られていた。

「まあね。簡単だけどスタジオを作ってみたんだよ。今までは外撮りばかりだったけど、登録者数も増えてきて。もう少し手数を掛けてみたくなってね」
 パーテーション内は防音コルクが敷き詰められており、広さは私の家のリビングより一回り大きいぐらいだった。

「ここでゆいっぺの映像も撮ったらどう。どんなきっかけで家を特定されるかも分からないし」
「確かにそのリスクはありますよね。更新ペースは毎日が良いとは言いますよね。厳しい」
 さすがに毎日更新は苦しいが、固定客がつくまでは毎日更新がおすすめとは聞いたことがある。

「そうね。撮りだめしておいて配信だけ日をずらせば済むから、思っているほど負担じゃないよ。あとはしゃべりかな。これは一番初めに慣れておいたほうがいい」
 陽さんはそうだ、と言いながらいかにもハイスペックなパソコンの電源を入れた。

「これさ、ざっくりしたトークスクリプトの時間配分とチャプター分けのタイミング。ゆいっぺはヨガ動画だから、登録者数の多い配信者さんを徹底的に研究して、
僕のは使える所だけ使って」
 陽さんはプリンターから吐き出された紙にペンで書き込みを入れると、私に差し出した。

「後、必ず英語の副題も入れて、本編にも英語を交えて。日本語だけの配信よりお客さんの数がぐっと増える。そうすれば登録者数の増加も早いし収益化も楽に達成できるから」
 矢継ぎ早に飛んでくる提案の形をとった指示の嵐に、私はペンを走らせるのが精一杯だった。

「さっそく試しに一本撮ろう。着替えて」
 陽さんは私を脱衣所に案内した。
 女っ気のない殺風景な洗面台の前でパーカーを脱ぐと、五百円玉が転がり落ちる鈍い音がした。
「あれ、もうちょっと。痛い痛いっ」
 洗濯機の防水パンへと吸い込まれていった五百円玉を救出するべく、私は身を低くした。
「ゆいっぺー、まだー?」
「ちょっと待って!」
 陽さんの足音に体勢を整えると、私は脱衣所のドアを開けた。

「五百円玉が変な所に転がって行っちゃった」
「取れそうなの」
 私が洗濯機の下を指すと、陽さんはよいしょと一声掛けて洗濯機を浮かせた。
「あっ、いけそう」
 私の指が金属を触った。尺取り虫のように引き寄せると、五百円玉の他にドッグタグが出てきた。

「これ陽さんの?」
〈0721SOEL1012TT〉と刻印されたそれをしげしげと見て、陽さんは首をひねった。
「僕はこういう趣味じゃないし、元嫁とその現旦那の誕生日でもイニシャルでもないし何だろうな。それとも彼氏の?」
 聞き流しかけて私はある事に引っ掛かりを覚えた。
「あの子、ここに来てるの」
「この前一緒に小机城址こづくえじょうしに行った帰りにね」
 思った以上に二人は急接近しているらしかった。

「彼氏のじゃないなら、ロケのバイトさんの持ち物が紛れ込んじゃったのかな」
 困ったようにドッグタグをもてあそびながら簡易スタジオに戻る陽さんの後ろで、私はぶつぶつと数字とアルファベットをつぶやいた。

「腹減ったー」
 初回のテスト収録とそのチェックに編集を終えると、陽さんは子供のように大きく伸びをした。
「全然簡単じゃないじゃないですか」
 ぐったりと机に突っ伏す私とは対照的だ。

「それでも前に比べたら、動画編集も楽になったんだよ」
「この手の事って苦手なんです」
 私は疲れ顔もあらわに、陽さんを恨めしげに見た。
「じゃあ編集は彼氏にやってもらえばいいじゃない」
「駄目ですよ。バイト代も出せないし」
「食事でも作ってやれば良いじゃないの。そうだ晩飯食べに出よう。帰りにそのまま家に送るよ。帰り道で良さそうな所に適当に入ろう」
 陽さんは再度大きな伸びをして、パソコン脇にぶら下げた拾い物のドッグタグを指ではじいた。


 アパートへの帰り道にあるビストロに入った時には、すでに午後八時を回っていた。
「遠慮するなって。僕こう見えてそこそこ稼ぎあるのよ」
 エビとブロッコリーのペンネだけを頼もうとした私に、陽さんがうめきながらメニューを差し出す。
「そういうつもりじゃなくて。もう夜遅いから」
「食事の量と時間にも気を使わなきゃならないなんて、ヨガの先生稼業は僕には出来そうにもないね」
 ぶつぶつ言いつつプチコースを頼んだ陽さんは、アミューズをつまんだ。

 白を基調とした皿にこじんまりと盛り付けられた品々は、私の勤務先ではお目にかからないような高級感に溢れている。とは言え価格帯と食材にスタッフの人数を見れば、おおよその原価が分かってしまうあたりが同業者の悲しい性だ。
 すっかりキッチン稼業が板についてきたものだと思いながら、私はちらりと店内を見回した。

「度がずれてきたかな。老眼だ老眼」
 陽さんは細いシルバーフレームの眼鏡を外すと、首を軽くひねってから掛け直した。
「さすがに早すぎますよ」
「そうだよな。ゆいっぺと僕は一つしか年が変わらないのにね。白髪も増えちゃってもう嫌になるよ」
 ため息をつきながら伸びかけのクルーカットを左手でわしゃわしゃと掻くと、陽さんはクリスマスのイルミネーションに照らされた窓の外に目を向けた。

 甘いもの好きな陽さんに負けて、締めくくりのキイチゴのクレープを食べ終えた頃には、客席はほぼ空席になっていた。
「ごちそうさまでした、おいしかった」
「どういたしまして」
 陽さんは満足げに笑うと、冷気に耐えるクリスマスツリーを見ながら歩き出した。

「寒っ。さっきより明らかに冷えてるな」
「明日は霜柱しもばしらが立ちそう」
 駐車場に向かって並んで歩いていると、聞き覚えのある声がした。

「すももはここに来たことがある?」
「いえ、初めてです。素敵なお店ですね」
 ファー付きのクレープ色のポンチョにふわふわのニット帽を被った鶴間つくしさんは、まるで雪の妖精のようだった。
 隣の男は私たちよりもかなり年上のよう。
 シガーとレザーにサンダルウッドの混じった香りが、冷気に乗ってやってくる。

「そう。『初めて』なんだ」
 男は、『初めて』に強勢を置いて満足げに念押しした。
 キイチゴ色のハンドバッグを手にしたつくしさんは、ゆっくりとした仕草で時代がかった香水の匂いを振りまく初老の男を見上げた。

 私はつくしさんに気取られないようにショールを口元まで引き上げ、うつむきがちに陽さんの後ろを歩いた。
「陽さん?」
 ふと陽さんの足が止まった。
「すももちゃん?!」
 聞き取れるかとれないかぐらいの陽さんのつぶやきを、私はしっかりと拾ってしまった。

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