『孤島のキルケ』(8)
工場近くの空き地で、海豚の顔をした男は難しい顔をしていた。
竹とんぼのような部品を太陽に透かしては、糸やすりで細かく研いでいる。
どうにもしっくりこない風で、何度も何度もやすりを掛けている様子だった。
彼は私ととむを見るなり、首を横に振って海の方向を指さした。
私には獣面人身の言葉は分からないから、途方に暮れて立ち尽くした。
「何か不具合があったのか」
もとより私はこの潜水艦なる船に、全幅の信頼は置いていない。
不具合があるのがむしろ当然だと思いつつ、私は海豚の顔をした男に尋ねた。
海豚の顔をした男は両手を三角形にして私の額にあてながら、異国の言葉を早口でささやくように何度もつぶやいた。
きんと耳鳴りがして側頭部が痺れる感覚があり、そのまま私は操られるように海辺へと歩き出した。
とむは私に付いてこなかった。
なだらかな下り坂を黒土や砂礫に足を取られながら歩くうちに、波の音が聞こえてきた。
私は操られるままに浜昼顔の群生の近くに腰を掛けた。
眉間と側頭部に圧がかかり、きんと耳鳴りが聞こえてくる。
耐えられずに立ち上がろうとしたが、浜昼顔に絡めとられたように腰が動かなかった。
ほどなくして、耳鳴りとちかちかと花火のように爆ぜる色彩が瞼の裏を行き来し、頭がひとりでに震え始めた。
「きえええええっ」
およそ自分の物とは思えない海豚の顔をした男のような奇声を発すると、私は放心状態で浜昼顔の上に背中から倒れた。
真夏の野犬のように荒い息を繰り返していると、砂を踏みしめる足音が聞こえてきた。
海豚の顔をした男は竹とんぼのような部品を手に、浮かぬ顔をしていた。
入道雲の沸いた空を仰向きに倒れたまま見上げる私をのぞき込むと、何を思ったか、やおら眉間に竹とんぼのような部品をねじ込んできた。
「きえええええっ」
痛みとも熱とも言えぬ衝撃に目を開けたまま私は絶叫した。
私の目をのぞき込む海豚の顔をした男と、目を通して体が一つに融合していく感覚を覚えた。
私の意識は海豚の男と融合したようだった。
『目の前のコマを右に回転させようと念じてください』
仰向けになったままの私の目の前にふわふわとコマが浮いていた。
私は言われた通り、コマを右に回転させようとしたがピクリとも動かなかった。
『では工場の地下室にいるトミー・ビス氏があなたにメッセージを送ります。トミー・ビス氏から送られたメッセージをそのまま声に出してください』
何となくとむの姿が見え、何やら声らしきものが伝わってきた。
「ふぁっくんびやっち」
私は合っているのかいないのか分からぬまま、異国の言葉らしきものを聞こえてきたままに伝えた。
『ではトミー・ビス氏の手にしている船の模型のプロペラを左回転させてください』
とむが手にしていると言う船の模型自体を見ることが叶わないので、左も右もあったものではない。
私はあてずっぽうで左に回転しろしろと念じた。
『ふぁっくんしっと』
とむの吐き捨てるような声だけを耳が拾った。
『駄目ですね。やはり人体は獣体に比べると第六感が退化しすぎている。この状態では、想念で舵を取るハイブリッド型パイケーエス式潜水艦に乗り込ませるのは難しい』
『アンテナをつけてこの状態じゃあな。思念と声はかなり聞き取れているようだが、念動力回路が壊滅的に弱すぎる』
海豚の顔をした男ととむが、私の頭の中で会話を始めた。
『いっそ海豚になっちまったら楽じゃねえか。海豚が一番超感覚が発達しているんだろ』
『それでは脱出させる意味がない。人の姿でないと』
二人が同時に漏らした深いため息が頭の中を占領して、私は自分が酷い出来損ないの欠陥品のような気分になった。
『アンテナの感度をこれ以上増強させるか本数を増やすか……。しかし肉体への負担が増しますからな』
『となれば、十六夜《いざよい》の月までに第六感の強化訓練を徹底的にやるしかないぞ』
『何もしないないよりはマシでしょうが。潜水艦本体の改良はほぼ完成していますから後は念動力回路が太くなれば』
『じゃ、俺が訓練係って事になるのか』
とむが「はんぎんぜあめーと(※)」と呪文めいた異国の言葉を唱えると、それきりとむの声は聞こえなくなった。
『具体的な訓練はトミー・ビス氏の指示に従ってください。初めのうちは意思疎通も難しいでしょうが、それ自体も訓練の一環となりますのでご理解ください』
無茶なと声を上げたくなったが、十六夜の月までにこの島を脱出するには私の『第六感』とやらが成功のカギとなるようだ。
私は渋々海豚の顔をした男に従うことにした。
『肉体への負担を考え、アンテナの埋め込みは一日四半刻(三十分)までとしましょう。では今日はここまで』
私と海豚の顔をした男の意識がやおら分離し、額から脳みそが引きずり出されるような感覚と共に、あんてなが額から引っこ抜かれた。
私は獣にはなっていないが、人間とは違う何かにされてしまうような得体のしれない恐れが、私の心に渦巻いた。
私はあんてながずるりと引きずり出された額に手をやった。
穴は開いていないようだったが、感覚では穴が開いてすうっと脳内に風が吹き込むような所在無さを覚える。
私は立ち上がる気力も無くして、浜昼顔の上に座り込んでいた。
入道雲を照らしつける太陽は中天をやや超えて、私の肌を焼き焦がしていくようだった。
私はのろのろと立ち上がると浜昼顔の群生を後にして、低湿地の水場の木陰へと足を引きずりながら移動した。
岩場に腰を掛け、水筒の水を飲む。
素足を水にさらすと、焼け焦げた肌の火照りが少し和らぐのを感じた。 しばしぼうっとしていると、背後からがさごそと草むらをかき分ける音がした。
「とむか」
向けた目線の先には、黄金色の毛並みの犬が首から風呂敷をぶら下げていた。
「ありがとう。きるけえにもよろしく」
私は風呂敷に包まれた握り飯を受け取ると、黄金色の毛並みの犬の背を見送るはずだった。
彼はぴたりと腹を地面につけると、微動だにせず私のそばに座った。
黄金色の毛並みの犬は大抵きるけえの傍を離れる事がないのに、珍しい事もあるものだ……。
隣からかすかに感じる圧に居心地の悪さを感じつつ、私は経木の包みをほどいて握り飯を頬張った。
今日の握り飯は塩わかめとあさりの佃煮の二種類であった。
二つ目の握り飯に手を付けた頃、とむが草むらからぬうっと顔を出した。
「まずは飯を食わせてくれ」
私の声にとむはしっぽを一回だけ地面に叩きつけると、大きなあくびをして横になった。
あさりの佃煮は実山椒が混じっていて、久方ぶりに酒のたぐいを飲みたくなった。
「ここの酒はやはり飲まぬ方が良いのか」
とむに問いかけると、とむは面倒くさそうにしっぽを一回だけ地面に叩きつけた。
その間も、黄金色の毛並みの犬はじっと地面に伏せていた。
彼は人間だった頃もこんな風に静かに、きるけえのそばに辛抱強くたたずんでいたのだろうかと思った。
私は最後の一口にかぶりつくと、水筒の水に口をつけた。
それを見計らったかのように、黄金の毛並みの犬がのそりと立ち上がった。
犬の足跡が波打ち際に向かって刻まれていった。
「あの犬の事をこれより先はふらんそわと呼んでも構わないだろうか」
とむは瞳孔を細めると、ふいと横を向いた。
言葉が理解できないのは本当に不自由だ。
くちくなった腹を一さすりしてため息をつくと、横になっていたとむがのそのそと私の膝にその前足を掛けた。
「もう少し休ませてくれないか」
私の言葉に構う風もなく、とむは私の腹に前足を掛けた。
ずっしりと骨太で筋肉のついた前足は、見た目よりもずっと重かった。
「放してくれ、重い」
私はとむの前足を振り払うように寝返りを打った。
とむはその太ましいしっぽで私の尻を叩いた。
「この世界は時間は『ある』と思えばいくらでもあるのだろう? もう少し休んでから……」
その言葉を明確に拒絶するように、とむは私の頭を甘噛みし始めた。
甘噛みとは言えオオヤマネコの甘噛みだ。
余りの痛みと口臭に、私は音を上げた。
「分かった。分かった起きるから。訓練するから」
とむは甘噛みをやめると、前足を私の腿に掛けたまま伸びをした。
前足が私の腿に食い込むのもお構いなしで存分に伸びをしたとむは、ふらんそわの後を追って波打ち際へと歩いて行った。
オオヤマネコと人と犬の足跡を並べながら、私たちは浜辺へと歩く。
とむはがりがりと湿った砂を引っ掻くと、ざぶんざぶんと寄せては返す白波相手にじゃれはじめた。
「今日は泳ぎの訓練でもするのか?」
海中に浮かんでは消えるとむの姿を見ながら呑気に服を脱ぎ始めていると、いきなり高波が私のひざ元まで押し寄せてきた。
「おい、とむ!」
とむの全身がひと際高い白波に叩きつけられると、海中に沈みこんだまま浮き上がらなくなった。
「とむ、どこだ!」
猫のたぐいは水に弱いはずだ。少なくとも私が知っている猫はそうだ。
オオヤマネコも猫のたぐいなのだから水が苦手に違いない。
私は海中に引きずり込まれたとむを助けようと、脱ぎ掛けた服もそのままに海へ飛び込んだ。
だが私は海辺の町の生まれのくせに泳ぎは得意ではない。
足を砂と波に取られつつとむの姿を探すが、海水の中で目を開けられずにすぐ海面に顔を出してしまう。
ぶはぶほと聞き苦しい音を立てながら無我夢中でとむの姿を探していると、不意に背中に急に濡れた米俵のような重みがどさっと掛かった。
手を背中に回すと、短い獣毛が私の手のひらを濡らした。
「とむっ。無事か」
切羽詰まった私の声とは裏腹に、とむはひらりと波打ち際に飛び移るとどこか呆れたような顔で私を見上げた。
慌ててとむに駆け寄ろうとすると、とむはシャーシャーと威嚇音を立てて私を海中に追いやった。
「今日の訓練はこれか」
とむは溺れたのではなく、潜水の練習をしろと言いたかったのか。
思い至った私は、ゆっくりと沖合へと歩を進めた。
荒めの砂にまぎれた貝類が時折足裏を刺激する。
ぎらついた太陽光に波の一つ一つが反射して、瞳まで日に炙られそうだった。
眩しすぎて耐えられなくなった私は思わず顔を海面につけた。
瞬間、ふっと足元から大地が消えた。
黄金色の毛並みの犬の吠え声が一瞬聞こえたが、全身を海底に引きずり込まれた私の耳には静寂しか残らなかった。
※Hang in there,mate!(頑張れ)
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
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