『落研ファイブっ』(25-2)「宮戸川」
午後九時半に眠りにつける訳もなく、仏像はフットライトにほのかに浮かぶ松尾の寝顔をぼんやりと見た。
『家でも気を遣い続けるのは大変だよな』
家が憩いの場で無くなるのは、逃げ場の無い子供にとってかなりのストレスだ。
『俺のせいで、家がメチャクチャになっちまったんだもんな』
俺があんな夢さえ追わなければ――。
仏像が雨の音に紛らわせるように声を殺して泣いていると、背中に松尾の大きな温かい手が添えられた。
「どうしたんだよ」
「だってゴーさん泣いてる」
「泣いてねえ。放っとけ」
ぎしりとベッドがきしむ音がして、松尾がトントンと仏像の背中をあやすように叩いた。
※※※
松尾を振り払うのも面倒でされるがままにしているうちに、雷鳴がどんどん近くなってくる。
「うおおおっ! おへそおへそっ!」
「お前ビビり過ぎだろ。ガキかよ! 何その『おへそおへそ』って」
一際大きな落雷と共に、松尾が先ほどまで見ていた『宮戸川』のお花よろしく仏像にしがみついた
「あ、今スゲー近くに落ちた。どんだけ雷落ちれば気が済むんだうるさくて寝れねえ。松尾いい加減雷に慣れろって」
「おへそおへそおへそ」
「暑い、くっつくな」
あーもうっと言いながら仏像はベッドサイドのスマホを手にした。
「千景先生から連絡は」
「まだ入りません。仕事帰りに飲んでるかも」
「こんな雨の日に。先生大丈夫」
「タクシーで戻ってくるでしょうから。とにかく僕はあのわらしべ御殿から脱出するんです」
「そんな事を言ったら、政木家の金のルートもたいがいだわ。うちの父親、渡りのハゲタカなの」
「ハゲタカって何ですか」
仏像から身を離した松尾がきょとんとした声でたずねた。
※※※
「父親は、外資系の金融機関を渡り歩いている。それで朝から晩まで家に寄り付かないんだ。母親は離婚してカナダに帰ったし」
雷鳴は徐々に遠のいていた。
「俺は出生地がアメリカで、十歳の時にスノボで全米ジュニアを獲った。その頃の夢はアメリカ代表として世界の頂点に立つことだった」
松尾はリビングに飾られたスノボ時代の仏像の姿をまぶたに浮かべる。
「ちょうどその頃、父親が転職で日本に来ることになって。別居婚はあり得ないって父親がごねて結局三人で日本にやって来た。日本に住んだことも無いのに、キャリアも捨てて日本に来た母親はとにかく大変だったと思う」
「母親は日系カナダ人だから、日本語がペラペラな上に顔だってほぼ日本人だけど、親子そろって日本社会ってものが分からないから浮いてたね。一並ぐらいユルユルの学校じゃなきゃ俺潰れてたわ」
松尾は無言で相づちを打った。
「横浜からスノボの遠征や練習に行くのってかなり金が掛かるんだよ。だけど当時の俺は子供だったから、それがどれほど大変な負担かが分かっていなかった」
「それでクラウドファンディングとモデル業を」
「経済観念を俺に身につけさせたい母親の発案で始めたんだけど、活動資金はいくらでも出せるって父親が怒って喧嘩ばっかり。俺がワールドジュニアを制して喜んだのもつかの間、訳の分からねえ奴らが家を特定して俺や両親の事をある事ない事書き散らしやがって。そこから家庭崩壊へと一直線」
俺が日本に来た時点でスノボをすっぱり辞めていれば、こんな事にはならなかったんだけどと仏像はうつむいた。
「何でお前が泣く」
松尾はすすり泣きながら、小さな子供のように仏像の背中にしがみつく。
されるがままにさせていると、仏像のスマホが着信音を奏でた。
〔多〕『松田君と代わって』
〔仏〕「松尾、矮星から。多分帰還命令だ。スマホの電源落ちてんじゃね」
松尾はスマホを取り出して、電源を入れ直した。
〔多〕『叔母さんが、松田君が置手紙をして家出したって慌てて坂崎先生に連絡したんだよ。スマホに連絡しても全然繋がらないって坂崎先生も心配してる。何があったのか知らんが、今日の所はすぐに連絡して家に帰りなさい』
〔松〕「嫌です」
〔多〕『何があったにせよ連絡ぐらいはしなさい。虐待されたりしてる訳じゃないんだろ』
〔松〕「VIO長者。あのお風呂」
〔多〕『何だそれ。坂崎先生には政木君の家で保護してるって伝えるから。じゃね』
松尾が自分のスマホを見ると、着信が二十件以上入っていた。
〔仏〕「お前がしないなら俺が電話する」
しぶしぶうなずくと、松尾は千景に連絡を入れた。
〔千〕「松尾ちゃん!」
松尾が仏像に引きずられるようにタクシーに乗せられてマンションにたどり着くと、千景は雨の中車寄せで待っていた。
〔千〕「どうしていきなりあんな事したの、千景と一緒に暮らすの嫌になったの」
仏像の背にしがみ付く松尾に、千景がおろおろとしながらたずねた。
〔仏〕「千景先生。『みのちゃんねる』とコラボしましたよね」
仏像の言葉に、千景が眉を上げた。
〔仏〕「『みのちゃんねる』は僕らの部活の先輩なんです。それで何も知らずに一緒に配信を見ていたら、松田君がかなりショックを受けてしまって」
〔松〕「わらしべ、VIO、お風呂……」
松尾はぶるぶる震えながら仏像にしがみついた。
〔千〕「ひとまず松尾ちゃんが無事で良かった。あなた、政木君でしたっけ。少し家で話を聞いても構わないかしら」
※※※
〔千〕「私は自分の仕事を本当に大切に思ってるし、人から感謝される仕事だと信じているの。そしてその対価を正当に受け取っているだけなのよ」
千景はうつむく松尾にカモミールティーを差し出した。
〔松〕「人のコンプレックスを刺激してお金儲けをしてるじゃないですか」
〔千〕「コンプレックスが刺激される時点で、その人にとって本当の『私』の姿があるの。そうでなければ美容外科の門は叩かない」
松尾は納得がいかなそうにじっと千景を見る。
〔千〕「私の仕事は人の自尊心を回復させて、イキイキと暮らす事が出来るようになるお手伝い。松尾ちゃんのお母さんが人の心に働きかけて患者さんの自尊心を回復させるように、私は形から患者さんの自尊心を回復させるの。ちょうどコインの裏表ね」
松尾はしぶしぶと言った体でうなずいた。
〔千〕「それで、お風呂って何」
〔松〕「今日お風呂に入ってて心底、ここは僕の家じゃないって思っちゃったんです。それで、政木先輩に晩御飯に誘われて。泊まるって決めたのは僕の独断です」
〔千〕「お風呂の何が気に入らないの。ちゃんと言って」
〔松〕「千景さんの好きな物に僕は口出し出来ないから」
松尾は千景に目も合わせず、もごもごとつぶやいた。
〔千〕「バスソルト。それともシャンプー。松尾ちゃんの好きなシャンプーを置いても良いのよ」
〔松〕「だって僕の好きな物を置いたら雰囲気が壊れるし。あそこは千景さんの大好きな場所」
〔千〕「うん。大好きだけど。松尾ちゃんが家出するぐらい嫌なんだとは思わなかったの」
〔松〕「嫌なんじゃなくて」
〔千〕「アウェー感を感じちゃったみたいなんです」
仏像が松尾の代わりに補足した。
〔千〕「確かにそうね。おむつを替えてた松尾ちゃんが、いつの間にかこんなに大きくなって。松尾ちゃんはもう大人になったのよね」
千景はゆっくりとカモミールティーを飲み干した。
〔千〕「でも家出は駄目よ。政木君だって、いきなり泊めてくれって言われても困るのよ。前もってちゃんと誰とどこに行くのか、どこに泊まるのか話しなさい。お友達と一緒に外をふらついたり、ネットカフェで夜を明かしたりするのは駄目よ。それから明日学校に行ったら、坂崎先生と多良橋先生にしっかり謝りなさい。とても心配されていたのよ」
千景はじっと松尾の目を見た。
〔松〕「僕、邪魔じゃないですか」
〔千〕「松尾ちゃんと一緒にいられるだけで幸せよ。余計な心配をしなくても良いの」
松尾は無言でうなずいた。
〔千〕「政木君、晩御飯を一緒に食べてネットを見るぐらいなら家を使ってくれてもいいから。午後八時以降に外で遊ぶのだけは止めてね」
〔仏〕「はい。分かりました。ありがとうございます。では僕はこれで失礼します」
〔千〕「タクシーを呼ぶわ。こんな遅い時間に何かあったらご両親に申し訳が立たないもの」
千景はタクシーを呼ぶと、松尾を部屋に置いたまま仏像とエレベーターに乗った。
※※※
「それにしても『みのちゃんねる』さんが、松尾ちゃんの部活の先輩だったなんて。落語研究会って不思議な部活ね」
「そうですね。ちなみに無料体験の五十代男性は、元の顧問なんです。音楽に目覚めて学校を退職して」
「無料体験で顔出し出来れば、無料でご自分の宣伝が出来るって張り切っていらしたわ。それにしても人のご縁って本当に不思議。三人知り合いをたどれば世界中の人と縁が繋がるって聞いたことがあるけれど、『みのちゃんねる』さんも『元先生』も私も、松尾ちゃんを通して繋がっているんだものね。それからもちろん政木君も」
車寄せに着くと、雨が上がっていた。
「タクシー代」
「えっ、ワンメーターですよ」
千景が差し出した金額は、タクシー代としては余りに高額に過ぎた。
「多分この先松尾ちゃんが逃げ込む先があるとしたら、政木君の家だから。食費もろもろだと思って受け取って」
「分かりました。外にふらふら出ないように家で預かります」
「ありがとう。あ、タクシー来た。じゃ、遅くまで付き合わせてごめんね。お休みなさい」
仏像は千景に頭を下げてタクシーに乗り込んだ。
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
(2023/8/7 「24・25話分割再構成および一部改稿」 2023/11/16 一部再改稿)
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