『落研ファイブっ』(64)「取引」
顧客台帳ファイルに無心で客情報を打ち込んでいるうちに、シャモの頭にようやく血が戻って来た。
〔シ〕「やべえ、マジでやべえよ」
記憶がおぼろげなうちに外堀が着々と埋められていることに気が付いたシャモは、すがるように仏像に電話を掛けた。
〔仏〕『シャモどうした。俺は今から予備校なんだよ』
〔シ〕「ヤバい事になった。俺っ」
〔仏〕『おう、いつものシャモの口調に戻った。生霊退散したか、それとも互いの魂が元に戻ったか』
〔シ〕「何だよ生霊って。魂が元に戻るって。それより聞いてくれよ。しほりちゃんの母親が家に来た」
〔仏〕『娘をかどわかされて怒鳴り込みに来たか』
〔シ〕「違うんだって。美濃屋の二か月以上の売上が一発で立っちまったんだ」
〔仏〕『良かったじゃん』
〔シ〕「何か勘違いされてんだよ。しほりちゃんの採寸を俺に任せようかって意味深な笑いを浮かべて。絶対しほりちゃんと俺が付き合ってるって誤解してるよあれ」
〔仏〕『誤解だあ?! お前自分でしほりちゃんの事俺の女って言ったろ』
〔シ〕「冗談だろ。何をどうしたら日曜に初めてちゃんと会った子とすでに付き合ってる事になってんだよ」
〔仏〕『でもお前が自分で言ったんだよ。下野が彼女を散々ディスった時に『俺の女バカにしないでくれる』って言ったんだってば。左腕に梵字シールなんて貼られちゃって、自慢げに俺たちに見せたの」
〔シ〕「梵字シール。何それ」
〔仏〕『いいから左の二の腕見ろって』
シャモは言われるがままに、シャツをまくり上げて二の腕を見た。
〔シ〕「あー、何だろこれ。変な線みたいなのが一本ついてるけど」
〔仏〕『変な線だと。お前が左二の腕に貼られたのはサンスクリット語の【キリーク】の梵字シールだぞ。もうちょっと複雑な形状のはずだが』
〔シ〕「だって線だもんよ。後で写真送るわ。いつの間にしほりちゃんと付き合ってることになってたの。マジヤバい。しほりちゃんがお母さんに言ったって事。でも俺告白された記憶も無けりゃOKした記憶もねえよ。どうすんだコレ」
〔仏〕『知るかよ。もうすぐ授業始まるから、じゃな』
〔シ〕「待ってって」
〔仏〕『松尾がお前らのデート現場を目撃してるから聞いてみろ』
切断音を聞きながら、シャモは自分の記憶がおぼろげな二日間でとんでもない事態が進行していたと改めて気が付いた。
〔シャモ〕「ギャーっ。どうすんだ俺」
〔シャモ母〕「うるっさいよ漢太!」
シャモ母の怒鳴り声に構わず、シャモは松尾のアイコンをタップした。
〔松〕『珍しいですね、どうしました』
〔シ〕「松田君さあ、しほりちゃんって分かる」
〔松〕『あーシャモさんの彼女さんですよね』
〔シ〕「マジでお前らの間で、しほりちゃんって俺の彼女って事になってるの」
〔松〕『あそこまでしておいて何を。そりゃいくら何でもひどいんじゃないですか』
シャモに向かって、松尾は呆れ声を出した。
〔シ〕「あそこまでって何してたの俺。俺本当に何にも覚えてないんだよ。日曜日にしほりちゃんの隣に座った所から、記憶がまるで五十倍に薄めたコーピスみたいになってんの」
〔松〕『それもはやコーピスじゃ無くて水です』
松尾は極めて冷静に突っ込んだ。
〔シ〕「俺そんな偏差値二のバカップルみたいな事してたの。お願い忘れてえええ」
目撃した全てを包み隠さず松尾が話すと、シャモは終末を見たかのような叫び声を上げた。
〔松〕『一人の男として忠告します。あそこまでやっときながら彼氏じゃないと言い張るなら、ただの人間のクズです。僕が女なら横っ面張り倒して引きこもりになるレベル』
〔シ〕「駐輪場?! 嘘でしょ、嘘だと言ってよ頼む」
〔松〕『多良橋先生の『プレゼント』が減ってませんか』
〔シ〕「プレゼントって何」
しらばっくれるなんて最低ですと言いつつ、松尾はシャモに『プレゼント』の内容を告げた。
〔シ〕「嘘だ、嘘だ。俺そんな物もらってないって。佐藤錦も真っ青なチェリー野郎が、まさか駐輪場でそんな」
通話しつつ通学カバンを漁っていたシャモが、絶望的な悲鳴を上げて崩れ落ちた。
〔シ〕「三枚減ってた」
〔松〕『どこが小心者?!』
〔シ〕「ひどい。俺一つたりとも記憶が無い。しほりちゃんと触れ合った記憶も一切ない」
〔松〕『往生際が悪いぞ。証拠も目撃者も揃っているんだ。後はこの調書にサインを』
相変わらず刑事ドラマごっこが好きな松田松尾十五歳である。
〔シ〕「見てたんなら止めてよ。仏像もいたんでしょ」
〔松〕『駐輪場事案は僕一人が目撃者です。安心してください』
〔シ〕「そうだ、松田君の記憶さえ消せば」
〔松〕『マンガの見過ぎです。それに僕の記憶を仮に消したとしても、しほりさん自身に記憶が残ってるはずですってば』
あああああっ、どうしよどうしよとシャモはうわごとのように繰り返す。
〔シ〕「俺下手したら十八歳でパパになるの。やばいやばいやばい」
〔松〕『腹くくりましょう。これで逃げたらお百度参り所の騒ぎじゃないですよ』
松尾は非情な現実をシャモに突き付けた。
〔シ〕「それが、しほりちゃんの母親が店に来たんだよ」
〔松〕『もう何も言えねえ』
蚊の鳴くような声でしぼりだしたシャモの告白に、松尾がキャラ崩壊するような一言を発した。
〈水曜日昼食時〉
〔松〕「どうしましたシャモさん、のろけですか」
深刻な顔で一年七組に顔を出したシャモに、松尾が軽口を叩く。
〔シ〕「いや、取引をしたい」
手招きをするシャモを下野が不安そうに見つめる中、松尾は弁当を置きっぱなしにして廊下へと出た。
〔シ〕「あの話は後生だから黙っててくれ。この通り。頼む」
〔松〕「言う訳無いじゃないですか。本当にシャレにならないって」
土下座する勢いで頭を下げたシャモに、松尾はあわてて頭を上げる様に頼んだ。
〔シ〕「決定打は見てないんでしょ。頼むよ、お願い見てないって言ってよ」
〔松〕「僕が見たのは予告編って言うかそんな感じ。制服着用でしたね」
〔シ〕「じゃじゃじゃじゃ、いちゃいちゃで終わってた可能性も」
〔松〕「『プレゼント』が三枚減ってたのはどう説明つけるんですか」
その言葉に、一瞬ぱっと顔が明るくなったシャモは再びがっくりとうなだれた。
〔松〕「それで、しほりさんから連絡は」
〔シ〕「昨日の晩飯の内容と(´ε`)チュッチュのスタンプが来たぐらい」
シャモは俺どうすりゃ良いんだよと頭を抱えた。
〔松〕「今の所お百度参りモードでも生霊モードでも無いって感じか。寝た子は起こさないに限ります。シャモさん、大人しくしほりさんの『彼氏』でいてあげてください」
〔シ〕「無茶な! そもそも記憶が完全にぶっとんでるレベルなの。いつ告白されたかもOKしたかも分からないままこんなのって」
〔松〕「でも『やっちゃった』物はもうどうしようも無いですからね。付き合うしか無いですって。で、取引って何ですか」
駄々をこねる子供のように首を横に振るシャモに、松尾の目は冷たい。
〔シ〕「松田君が隠したい事ってこれでしょ。いずれバレる話なのに往生際が悪いね」
松尾はシャモのスマホの画面を見て、思わずやられたっと顔をしかめた。
〔松〕「黙秘権を行使します」
〔シ〕「仏像に餌付けしてるんだって。あの子チョロいから行けるって」
刑事ドラマごっこで逃れようとするも、シャモも追いすがる。
〔松〕「駐輪場」
訳知り顔でにやつくシャモに一瞬固まった松尾だったが、一言で切り捨てて下野の元へ戻っていった。
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
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