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『あの子のこと』(14)「夢のフラット35へようこそ」

 陽さんが住んでいるのは、三路線が交差する駅近くのマンションだった。
「夢のフラット35へようこそ」
 陽さんは自虐的じぎゃくてきに笑いながらダブルロックを外す。
 高級そうなつくりの玄関には、折り畳まれたベビーカーがうっすらとほこりをかぶっていた。

「無駄に広いんだよね。いっそ売っちゃうか貸し出すかして、単身用に住み替えたいんだけど。でも、フラット35でローン返済中の身だから」
「いつからここに」
「五年前。仕事の都合で、この辺には六年前から暮らしてたんだけどね」
「私がインドから戻ってきた頃じゃないですか」
「そうだったんだ。じゃあゆいっぺともっと早く会えたら良かったかもね」
 陽さんは冷蔵庫からアイスコーヒーのボトルを取り出すと、ビールの景品らしきグラスになみなみと注いだ。
 
「僕ね、三十代前半には子供が欲しかったのよ。でもコンプライアンスのおかげで社内恋愛なんて無理だし、それ以外に出会いの場もないし。だからって安易にマッチングサイトに頼った僕が悪かった。とにかく焦って結婚相手を探したからね」
 アイスコーヒーに大量の牛乳を投入しながら陽さんが話し始める。
 早口で薄っぺらくマシンガンのように事実を並べ立てるその声色に、陽さんの内心が透けて見えた。

「そんなの、お互い様じゃないですか」

「確かに、嫁さんは嫁さんで、二十代で出産しようと焦っていたからね。外資コンサルだった彼氏が、嫁さんに相談なく会社を辞めて起業した時に、ばっさり彼氏を振ってマッチングサイトに登録したんだって」
 陽さんの目線の先が、ベビー用のマグカップが置かれたカップボードに向く。

「そんな訳で僕らはスピード結婚してここに住んで子供が出来て、そこまでは順調だったんだ。だが元彼は幼馴染で、家族ぐるみで仲良くしていたらしい。それが出産準備で嫁さんが実家にもどったのを良い事に」
「元さや?」
「そりゃマッチングサイトで出会った平々凡々のサラリーマンよりは、気心の知れた幼馴染の起業家の方が良い。互いの両親だってその方が絶対に都合が良いよ」
 陽さんは乾いた笑みをもらしつつうなずく。

「八か月ぶりに嫁さんと息子の顔を見て、何かあるぞと思った。だけどどうしても真実を直視することが出来ずに……。仕事に紛れてやり過ごしているうちに、何とかなるんじゃないかと思って」
 私は、黙ってアイスコーヒーに手を付けた。
 景品のグラスに張り付いた無数の水滴が、傷一つ無いテーブルにシミを作っていく。まるで陽さんの心を代弁するかように、私には見えた。

「そのうちに相手の男が、慰謝料いしゃりょうを払うから嫁と別れてくれって嫁さんと息子連れで来たんだよ。その時息子は一歳六か月だった。息子は相手の男の事をパーパーって呼ぶんだ。あれには参ったね」
 陽さんは自嘲的じちょうてきに鼻で笑ったまま顔を膝に埋めた。

「確かにあの二人は家族ぐるみの付き合いだったかもしれないけど、有責ゆうせきなのは嫁さんの側だから親権しんけんは欲しかった。でも僕は子供に会いに行くことも出来ない」
「どうして。陽さんの子供じゃない」
「まだ物心つく前だから、二人も父親がいる事を理解できないんじゃないかって。それに今じゃ、僕の息子に弟が出来たんだ」
 陽さんが赤くなった顔を上げた。

「人の縁ってのはなかなか一筋縄じゃいかないね。嫁さんが短気を起こさずあの男を信じてやれたら、彼らはそのまま幸せな夫婦になれただろうし。僕だって」
「結局その人の起業は成功したって事」

「ああ。子供の養育費ぐらいは出させてほしいって言ったのも却下きゃっかされたよ。逆に慰謝料を払うってあの男は言ったけど、口止め料のつもりもあったんじゃないのか。今じゃ百億円近くは個人資産があるらしい」
 それは男として一児の父として圧倒的敗北を感じざるを得ないだろう。
 私は心底陽さんに同情した。

「しかもそいつは拓人君の学部の先輩なんだ。女をメモ用紙のように使い捨てそうなスペックの男が、美人でもない上に子持ちの元彼女一筋だなんて、世の中って広いね」
 言いながら、陽さんはスマホを私に見せてきた。

「この写真だけは消せそうにないよ。息子が写っているからね」
(元嫁《これ》のどこが良いんだ??)。
 次の瞬間には忘れてしまいそうなほど印象に残らない彼女に対する率直な感想は、胸の内にしまっておいた。 


 陽さんの車でアパートに着いた時には午前四時を回っていた。拓人さんの部屋の雨戸からは、うっすらと明かりが漏れ出ている。
 雨あがりの水たまりを踏まぬように気を付けながら、私は玄関のドアを音を立てぬように開けた。

 セミダブルベッドに横たわりながら、陽さんと結婚した自分を想像してみた。
 あまりの違和感に、思わず笑いがこみ上げる。
 彼とは兄妹みたいな距離感に落ち着いてしまって、性的な興奮や恋愛感情を呼び覚ます相手としては、どうしてもとらえられなかった。

 陽さんは誰にだって優しかったし、あんな仕打ちを受けていい人ではない。とは言え、私に出来る事など何もありはしなかった。

 陽さんは息子が写っているから写真を消せないと言っていたけれど、元嫁《あれ》の事だって忘れられずにいるのだろう。
 いくらマッチングサイトだからと言って、全くの利害だけで結婚まで至る事はないし、子供が出来ればそれなりの情はいただろう。
 考えても仕方のない事をつらつらと考えているうちに、晩秋の夜が明けてきた。

 結局一睡もできぬままぼうっと朝風呂に入っているうちに、子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきた。
 風呂を出て雨戸を開けると、雨上がりの空はどこを切っても天色あまいろだった。頬を撫でる風も、雨が降る前より鋭さを増している。
 私はぶるっと身震いすると、サッシ戸とレースカーテンをしっかりと閉めた。

 キッチンのデジタル時計は七時五十二分を指していた。
 十七年前の私と陽さんは、いつも七時五十二分本川越着の黄色い電車に乗っていた。

※※※

「おっ乳の人発見」
「相変わらず無駄にデケーな」
 こそこそと話している男子中学生の声をシャットアウトするように、私はジャージの貸主を目で探していた。
 どの駅から乗車しているかは知らないが、時々同じ車両で見かける顔。
 きっとこの電車に乗ってくるだろうと、私はあいまいな期待をしていた。

 私服にスポーツバッグの出で立ちだったから大学生だろうかと思いつつ、減速しつつある電車の乗降口に目をやる。
「あれだよ乳の人」
「乳もいいけど顔もめっちゃタイプ。ちょっと気が強そうなのが最高じゃねえ?」
 東村山ひがしむらやま駅から乗り込んだ高校生の声まで加わって、私は剣山の上に寝かされた気分になった。
 彼はまだ乗車していないようだった。

 中高生のひそひそ声に呼応するかのように、スポーツ新聞やハードカバー本の間から盗み見るような男性たちの目が光る。

 身の置き場もなくうつむいているうちに、電車は所沢駅に滑り込んだ。
 慌てて乗降口に目をやる。硬めの髪質でスポーツ刈りにシルバーフレームの眼鏡。
 彼だ――。
 彼は私の目線に気づいたようで、互いに軽く会釈をした。

 ドア近くにもたれて立っている彼と私の間の五メートルをもどかしく思ううちに電車は新所沢駅に到着し、下車の人波に押されながらドアに近づいた。
 彼はまだ降りないらしい。
 私の胸を見つめながら改札へと向かっていく男子中高生を横目に、私は彼の隣に立った。

 電車が動き出すと同時に、彼の横に立った私はそっと声を掛けた。
「先日はありがとうございました」
「いえいえ、お気になさらず」
 彼は私の手から紙袋を受け取ると、再びドア近くの手すりにもたれた。
 それきり私たちの会話は途切れ、ドアの両端に狛犬のように陣取っているうちに電車は新狭山しんさやまに着いた。

「やべえよ俺。この間の模試で第一志望D判定だったんだけど。俺の代わりに受験してまじで」
「何言ってるんですか立川さん」
「ようちゃんなら受かるって。来年受けるんだろここ」
「そのつもりですが」
 私服姿に紺のメッセンジャーバッグの高校生らしき男子。
 彼は乗車するなり、私が第一志望にしている大学の赤本片手に吊り革をつかむ。

 私と同じ大学を受けるんだ。来年と言う事は今もしかして高校二年生なの――。
 
 聞くともなく彼らの立ち話を聞いているうちに、電車は午前七時五十二分に本川越に着いた。彼の通う学校も判明し、第一志望に受かれば彼と一緒になるかもしれないと思いつつ、私は彼らの後に続いて改札を通り抜けた。

※※※

 あれからもう十七年。
 私の人生は、停滞したままだ。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
(2023/7/2 改稿 2024/4/25および7/2 再改稿)

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モモチカケル
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