『孤島のキルケ』(7)
水神から水を分けてもらった私は館に戻った。
きるけえは泥と擦り傷だらけの私の足にひどく驚いた。
「旦那さま、一体どうされたのです。すぐに湯につかってくださいな」
この館で水神の守護が得られる場所があるとすれば湯屋だろう。
ふらんそわが初めてきるけえの寵愛を得た後に人間の姿を保てていた理由も、舞台が湯屋だったからと言う可能性がある。
私は湯につかりながら、きるけえに誘惑された場合の対処法を考えていた。
「何てことだ」
きるけえの細くしなやかな指先、鎖骨を彩る紺碧の宝石、そしてクコの実の如き二つの――。
妻以外の女性に何の興味も示さなかったはずの私は、きるけえの術中に落ちつつあるのを感じた。
愚かな私が気づかぬうちに、食べ物や飲み物に薬物が混ぜられていたのか。
純潔で清らかだったふらんそわを黄金色の毛並みの犬に変えたように、密やかに張り巡らされた蜘蛛の糸が私をからめとっていたのか。
『あんたみたいなただの凡夫にゃ到底無理だろう』ととむが言うのも無理はない。
昼には友愛とか父性愛とか言っていたその身が、日暮れの湯屋で彼女を想像しただけで浅ましい本性を現している。
私はすがるように湯屋に持ち込んだ水筒に口をつけ、海豚のような顔の男に教わった解呪の呪文をつぶやいた。
「旦那さま、お邪魔いたします」
浅ましい私の欲望を狙いすましたかのように、きるけえが湯屋の扉越しに声を掛けてきた。
きるけえは、着る意味が見いだせないほど薄い羽衣のような布をまとっている。
「おみ足が酷く傷だらけではありませんか。手入れを致しますから、どうぞ遠慮なさらずに足をお出しくださいな」
私は足を出すのをためらった。
獣に変えられる危険と、浅ましい欲望に身を委ねる愉悦を私は天秤に掛けた。
目の前のきるけえを欲しいままにしたくなっている自分が確かにここにいた。
足を出せば私は獣と成り果てる――。
その一心で解呪の呪文を脳内で何度も唱えるのがやっとであった。
「では私がそちらへ参ります」
言うや否や、薄物一枚を羽織ったままのきるけえが湯船にその体を沈めた。
水を吸った薄物は彼女の肢体にぴったりと張り付き、クコの実のような両の胸の突端に目が吸い寄せられた。
そしてつきあげたばかりの丸餅のような、もぎたての白桃のような両の乳房を掴み上げむしゃぶりつきたい衝動に私は駆られた。
私はきつく目をつぶり、故郷の妻子を思い起こしてやり過ごそうとして驚愕した。
あれだけ大切に思っていたはずの妻子の顔を、思い出せない。
妻子は私の中で、ただの概念と化してしまったようだ。
この時間のあるともないとも知れぬ世界での数日間は、かつて私がいた世界でどのぐらいの日数になっているのだろうかと空恐ろしくなった。
「どうぞ力を抜いてくださいな」
きるけえは目をつぶったままの私の足を左手ですくいあげ、両の胸の間で私の足指を挟んだ。
柔らかでありながら弾力があり、私の足指は離れがたくきるけえの薄桃色の皮膚にタコのように吸い付いた。
私は目をつぶったまま、左足をだらしなくきるけえに預けて放心していた。
今のところはかろうじて人間としての形と意識を保ってはいる。
だが足を揉まれているだけで脳天を突き上げるほどの快楽を感じている私は、確かに生粋の凡夫なのだろう。
かいがいしく私の足を治療するきるけえに沸くのは劣情ばかりで、彼女が求める真摯な愛情は一切湧いてくることがない。
改めて思うがこれは酷な呪いだ。
「これで左足の痛みは大分良くなるはずです。では右足をお出しくださいな」
きるけえの声が聴覚を、乳房が触覚を、香しい薬草が嗅覚を、水にぬれた薄物が視覚を奪う。
そして、彼女の唇が私の味覚を奪った。
ああ、私は堕ちた――。
とむの言う通り、私は凡夫であった。
「これ、お部屋にいなさいと言ったでしょう」
唇を離したきるけえが湯屋の入り口に向かって話しかけた。
湯屋の入り口の扉越しにオオヤマネコの影が見える。
私は人間の姿をしたとむが、侮蔑の視線で私を見下ろしているのを感じた。
我に戻った私は、きるけえを置いてとむと共に自室へ向かった。
私は愚かだった。
あれだけ妻子を思い、呪われたきるけえを哀れに思い何とか助けてやりたいと思ったはずの私はあっけなく劣情に流された。
私は凡夫であった。
とむは部屋に着くなり寝台の上へ寝そべった。
「とむ、済まない。確かに私は凡夫だった」
とむは私の謝罪には我関せずで自らの前足を舐めている。
私は水神からもらった水筒を窓辺に置いて、寝台の真ん中にデンと居座るとむに気を遣うように寝台の端に腰かけた。
「ほう、これは珍しい」
水筒ががたっと音を立てると、あの聞き覚えのある声がした。
とむが逆毛を立てて唸っている。
「控えよトミー・ビス。そなたの神は我には叶わぬ」
煌めく閃光と深紅の花弁を舞い散らせながら、明星の大神いしゅたるが寝台の上に現れた。
「エアに会ってきたのだな」
いしゅたるは黄金の杯に水筒の水を注ぐと、美味そうに飲み干した。
「あれの呪い除けなぞただの気休めぞ。これだから力を失った神にはなりとうない」
確かにいしゅたるの益荒男のような覇気に比べて、ふわふわと宙に浮く水神は存在感が薄い。
だが、私にとって神らしく映るのは水神の方だ。
「だからお前は凡夫なのだ。あんなふわふわした神の出がらしにすがって何になる」
確かに彼の神は、水神としての権能以外をいしゅたるに奪われたと言っていた。
翻って目の前で深紅と紫の衣を羽織って仁王立ちしている尊大な女神いしゅたるは、その身に沢山の神々を習合し神々さえ怖れる力を持っているようだ。
「我は明星の大神イシュタル。愛と美に生殖を司る偉大なる女神。万物を養育する大地の女神にして正義と統治の天秤。雄獅子の如き戦神にして寛大なる統治者。崇拝者を庇護し裏切者に厳罰を科す裁きの神。他にも色々あるが全部言ってやろうか」
私は力なく首を横に振った。
「気休め程度の水しか恵んでやれない水神エア。死すべき者たちがこぞって欲する、最強の力と権能を有する明星の大神イシュタル。どちらを尊崇すべきかは明白であろう」
理屈で言えば答えは一つだ。
だが、いしゅたるに頭を垂れる気には到底なれなかった。
「つまらぬ男だな。凡夫らしく欲望に任せてきるけえを貪る所まで堕ちれば良かったものを。それすら出来ぬ小賢しい小心者よ」
苛立った様子でしっぽをばたばたと寝台に叩きつけていたとむが、いしゅたるに飛び掛かった。
だがとむの体は空を切った。
「猫は愚かよのう。何度同じ事を繰り返せば気が済むやら。大人しく我の膝に乗っておれば頭でも掻いてやるものを」
余計な世話だと言わんばかりに、とむは低いうなり声を挙げた。
「悔しいのう、辛いのう。欲望に負けたばかりに猫ちゃんになって情けないのう。だが欲望に負けたのは自業自得だ。そうだろうトミー・ビス。逆恨みは心の毒ぞ」
とむは不貞腐れたように寝台の上で丸くなった。
とむを一しきりからかって飽きたのか、いしゅたるは残り香と共に空へ消えた。
入れ替わるように扉を控えめに叩く音が聞こえた。
「旦那さま、夜食をお持ちしました」
今度こそきるけえの手管に負けてしまいそうで、私は寝たふりを貫いた。
「お体が優れぬようですが」
ぎいっと扉が開き、この島で初めて口にした粥の匂いが私の元まで漂ってきた。
「お疲れの時には何か口に入れませんと」
きるけえの吐息が私の頬を撫でた。
私はきるけえから逃れるように寝返りを打ち、うつ伏せになった。
それを見越していたかのようで、きるけえは滑り込むように寝台に入り私の背中に美しい曲線を描く両の乳房を押し付けた。
「暖かい」
きるけえはまるで見失った母を見つけた幼子のように、両腕を私の腰に回した。
私は彼女を振り払うこともできず、丸太のように無言で寝台に横たわっていた。
「旦那さまは暖かいですね」
きるけえは人の心が読めるのだから、私が寝たふりをしている事などはなから分かっているのだ。
稚拙な嘘を見抜いた上で、私の首元にその顔を埋め私と同じ速度で胸を上下させる。
私の心に湯屋で感じた劣情の代わりに、幼子を慈しむ気持ちが沸き上がってきた。
「暖かい」
きるけえそうつぶやくと、私に呼吸を合わせ続けた。
私は何も言わず、ただ背中をきるけえに差し出した。
きるけえは何も言わず、ただ私の背の温もりを感じているようだった。
その呼気が子守唄のようで、私の瞼は自然と重くなっていった。
とむが私の頭の上を踏みつけるようにして歩き去っていくのをぼんやりと感じながら、私はいつの間にか眠りに落ちていった。
私が目を覚ますと、部屋には天高く上った太陽光が差し込んでいた。
いつに無くぐっすりと寝付いたようで、一瞬私は家の布団から起きだした錯覚すら覚えた。
昨晩の事を思い出し、私は慌てて自分の衣類や体の異変を確かめた。
着衣にも体にも変わった様子は見られなかった。
きるけえは私が手を付けなかった粥を下げたようで、あの嗅ぎ慣れぬ匂いが枕元から漂ってくる事はなかった。
きるけえが部屋に忍んだ気配すらないほど何一つ変わらなかった。
「お早うございます。良くお休みでしたね」
その言葉に私が軽く会釈をすると、きるけえは朝食を食べるように勧めてきた。
水神からもらった水を飲んだので大丈夫だと言い聞かせ、食卓に着く。
「頂きます」
ずずっと味噌汁を一口飲む。
今まで気が付かなかったが、味噌汁の味など家庭ごとで違うはずなのに私が家で馴染んでいたそのままの味だった。
米の炊き加減も私が最も好む仕上げで、干しわかめに鯵の干物も私の大好物だ。
何も伝えなくとも、きるけえにはすべて見抜かれているのだ。
頭でぞっとして腹が喜ぶ奇妙な感覚を覚えつつ、私は出された食事をすべて平らげた。
「今日もあちらに向かわれるのですか」
「ええ」
きるけえは濃い黄色の花を浮かべた茶のような液体を、背の高い茶碗に注ぎながら頷いた。
「昼食はこの子に持たせますね」
足元に侍る黄金色の毛並みの犬の頭を一撫ですると、きるけえは淡い柑橘類のような香りのする液体を飲み下した。
私は茶を飲みながら、黄金色の毛並みの犬がふらんそわであった頃もこんな風にきるけえの傍を離れずにいてくれたらと恨めしく思った。
玄関まで見送りに来たきるけえが私にそっと身を寄せるのを軽くあしらうと、眠りから覚めたとむと連れ立って私は館を後にした。
https://note.com/momochikakeru/n/nb76903a2fc7b
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
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