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満ちてゆく月と暑さのなかで

 74回目の慰霊の日、細い月が浮かぶころ、私は東京の自分の家にいた。テレビもラジオも付けてなかったけど、広島の夏空とクマゼミの激しく鳴く声も、式典で流れる楽団のメロディーも鐘の音も私には聞こえた。8時15分を迎えると黙祷をした。

 震災の一年前か二年前か、とある方から、紹介していただいた被曝医師肥田舜太郎先生。戦中軍医として広島に赴任、広島陸軍病院で働きながら戦争の厳しさを感じていたころ、市内から往診のために向かった村で迎えた朝、空にかっとまっ白に光る閃光を見て、焔の熱さが顔と肌を覆った。それから、目に見えたはずの広島の街の方に真っ赤な大きな火の輪が見えた…先生は、それから病院のある街に降りて行こうと戻ろうとするが、太田川の岸辺の途中で焔に阻まれ、そしてそこから無残な姿をして向かってくる人々を見て、先に進めず戻り、開かれた救護地で寝食を忘れ救援にあたるのだった。先生の勤めていた広島陸軍病院は爆心地から近く、片手か両手で数えるくらいしか生き残らなかった。先生は奇跡的なその一人だった。先生はその生涯を、被曝の実態の解明、被爆者の救済運動、核兵器反対運動に先頭に立って歩まれてきた。私は先生に会いに毎年慰霊の日に広島に向かうようになり、震災後はなおさら先生の意思と存在に寄り添いたい気持ちで向かっていたが、100歳を迎えた2017年の春分の日、先生は亡くなった。70年目を迎えた慰霊の日に、98歳で車椅子で来られた先生のことを忘れない。その時が最後の先生の広島訪問だった。

 そして、昨年の慰霊の日、先生は亡くなっていたが、先生の存在や意志を今後伝えたいとそれを探りに広島へ行こうと思っていた。が、そんななか母の治療には抗がん剤しかないと伝えられ、母と散々迷いながら、最初の抗がん剤治療がはじまる入院の日が慰霊の日と重なり、広島行きをやめ、母と病院に向かったのだった。そこで、最初の入院で癌がわかってから、はじめてCTを受け、さらに癌が進行していることを知り、またその進行が早いことを知り、母と抗がん剤治療を受けることにしたのだった。
 治療を受け入院していたある日、母のベットの横で、テレビを見ていると、翁長沖縄県知事が亡くなったニュースが流れた。母と私は少し前から激やせした翁長知事を見て近しいものとその意志にも近しさと尊敬も感じ、母は「翁長頑張れよ」とテレビに呟いていたりした。だから、入院先のベットから流れるニュースを見て、母と息を潜めた。


 そんなことを思い出しながら、満ちてゆく月の下で、昼間は暑さが険しくて出かけるのも躊躇してしまうなか、私はなんとか出かけられるタイミングを見て、よく自宅から自転車漕いで暮らす街をうろうろした。ひとつは、手続きのために役所に行くのに、それとちょうど仕事で調べものがあったためだった。子どもの頃から目にしていた世田谷区役所は、コルビジェの弟子の前川國男設計の近代建築で、新しさはないけど落ち着いた雰囲気がとてもいい。その中に、レストランけやきがある。元は近くで洋食屋を営んでいて、区役所の中に入ったというレストランは昔ながらのメニューで、きちんと手作りで、滝が見えるテラス席なんかもあって、なんだかとてもいい雰囲気だ。そして、区役所内の社食も見つけ、そこはもっと安くランチが食べれる。暑さのなか面倒な手続きで役所に行ったついでにしっぽりとお茶やご飯をするのを楽しみに感じるようになった。

 そして、自転車で走ってると、世田谷線沿線の昔ながらのお店や、最近新しくできている若い人たちがはじめたお店などが点在し、家から、歩いても、自転車でも、すっと行けることが、とても心地よく感じはじめた。暑さに負けて途中のお店で休憩をしたり、買い物をして帰ったり、世田谷線の走る景色を眺めたり。そこにとてものんびりとした暮らしがまだまだあることを感じて、こうした街に暮らせていることをありがたく思えた。

 そして、生まれてからずっとこの街で、暮らしてきたのに、今の家にだって何十年もいたのに、こうした落ち着いた、今、この街に暮らしている感覚が、自分にとって心地よく受け入れられる感覚がはじめてだと、ある日ふと気がついた。おそらく母といた時は、自分が今ここにいる感覚が、実はずっとうまく持てていなかったのだと。そして、このなにげない小さなささやかな感覚は、とてもたしかな大きなものだと。


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