梅雨明けと許し
長かった梅雨がようやく開けた。梅雨時に道端で出会う草花やしっとりと落ち着いた空気感がいつからか好きで梅雨を好ましく思うようになっていたけれど、この長い梅雨の終わりごろはさすがに私の身体も重く、暖かい太陽が待ち遠しかった。梅雨の終わりのようやく太陽の現れた日に、お日様を感じながら、手を伸ばし胸を広げ、大きく大きく伸びをした。本当に気持ち良かった。そして、今、汗を流し、身体が動いてくるのを感じて嬉しくなっている。
一年前の今ごろ、母は一月あまりの入院から退院できたころだった。6月の中ごろ、食べても吐いてしまうようになり、入院。検査し、癌が見つかり、すでに転移があったステージ4で、手術で癌を取り除くことも難しく、ただ食べられるようになるためのバイパス手術をすることになり、7月はじめに大きな手術をした。手術は無事成功し、見舞いにもよく行っていたけども、入院先の母からたびたびメールで、今日は白湯が出た、今日は味噌汁が出た、今日はおかゆとおかずが出た、と時に可愛い絵文字付きで嬉しそうな内容が届いたものだった。病院の食事に慣れながら、少しづつ食べられるようになってきて、退院できることになり、暑いなか我が家に帰った日、母は久しぶりの台所に立ち、夏野菜の天ぷらを自分であげて、冷やしそうめんを美味しそうに食べて、「家のご飯が一番美味しいね」と、本当に嬉しそうだったことを思い出す。
そのころは、一度食べらなくなったけど、まだ癌の進行はそれでも少なく、抗がん剤治療もしてなかったから元気さもあった。だけど暑さが一番厳しい時期、長い入院と手術の後に外を歩くのは厳しかったから、母の代わりによく買い物に行ったりした。それから、ビワ葉こんにゃく湿布がよいと聞き、近所でビワの葉が取れる家を見つけ葉っぱを頂いて、本を読んで、母に試したりしはじめた。母が気持ちよいと喜んでくれるのは、嬉しかった。だけど、一方私は、癌に関する本をいろいろ読みはじめて、癌にはなにを食べてはいけないとかの情報を入手し、やっと食べられるようになった母の買い物リクエストと違うものを買ってきたりして、母とよくぶつかったりしていた。
私も頑固だが、母は私にとっては、ずっと目の上のたんこぶみたいな、とても強い存在だった。言うことは正しいのだが、甘くない厳しいとこがあり、私はそれが子どもの時から、イヤだった。一方では、自分で人生を切り開いて来た先輩として、フリーランスで仕事をこなし自活していた母は、写真家を志した私を見守ってくれたし、仕事ができるようになってからも仕事を見て喜んでくれたり、時にはアドバイスをくれたり、とても頼りになる存在でもあった。また仕事だけでなく、地域でさまざまなことを活動しそこから仕事を作ってきた母は、いつからか私も自分なりに地域で活動をしはじめた私にとっても、仕事と同じように大きな存在だった。父と離婚したこともあり、母と私は、時にぶつかりながらも、近くその存在をお互いに気にかけあえる確かな関係だった。
だから、母が亡くなって、些細なことを相談したり、話したり、自分を気にかけてくれる存在がいなくなったことは、とても寂しかった。近所に買い物に出た時に、急に雨が降られ駅前で雨宿りをして待った。もう、私が傘がないことを気にしてくれる人はいないんだ、と、ふと雨宿りをする人たちが並ぶなかで思ってしまった。
でも母は、亡くなってからも、どこかではいつも私を見守ってくれているように思っている。亡くなってから、日々そう感じてきた。ただ生きてる時とは違う感覚もやってきた。そのひとつは、母は私を許してくれると感じるようになったことだった。母が亡くなってから、私は葬儀、片付け、引越し、手続き、それらをほとんど一人でやらなくてはならなかった。葬儀はたくさんの方が気にしてくれて、手伝ってくれたが、四十九日を過ぎ、自分の仕事や日々のことを続けながらそうしたこともこなし、やらなくてはならないことはつぎつぎにあり、ただそういったことだけに向き合っていると身体も心も重くなってしまうのを感じた私は、適度に自分の楽しいと思うこと、楽しくてやりたいと思うこと、それを大事になるべく取り入れていいことにした。旅行に出たり、友人と会ったり、遊びに行ったりと。だからなおさら、やるべきいろんなことは思うよりも遅く、きっと普通に母や親戚が近くで知ったら、どうかと思うようなゆっくりさだった。でも、私にはそうして自分を許して、生きていいことにするしかなかった。そして、最近になって、少し落ち着いて過ごせるようになってきて、見守る母も「それでいいよ」と言ってくれているように感じるようになったのだ。そんな母が許してくれてるような感覚が、ふとあることに気づいて、それは、私にとってとても大きな変化に思うのだ。
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