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人と人は悲しみで同期する~「日本人の身体」~
こんにちは、ちゃんももです。
さて、先日「日本人の身体」という本を読みました。
内容としては『本来おおざっぱで曖昧であったがゆえに、他人や自然と共鳴できていた日本人の身体観を、古今東西の文献を検証しつつ振り返り、現代の窮屈な身体観から解き放つ(Amazonの紹介文)』という感じ。
著者は能楽師さん。
ということで、「エネルギーを身体的に感知して表現する」というお仕事をしている方ならではの、
そして、西洋と東洋の身体に関わる思想的なルーツも知ることができる、非常に面白い本だったのですが。
今回は、この本の「セラピーの時に必要とされる『同期』」について書いてある部分について、思ったことをあれこれ書いてみたいと思います。
我々は悲しみを介して同期する
まずは、これに関して、本の中でどんなことが書いてあるか、軽く抜粋してみましょう。
●治癒するものと治癒されるものとの間にまず必要なのは、深いところでの互いの同期、すなわち「内臓(はらわた)の同期」なのです。
●他人の苦しみをはらわたで感じる内臓感覚(中略)、日本語では「憐れむ」と訳しました。
●日本人の身体感覚の基本は、自他の区別もなく、また環境と自己との差別もない曖昧な身体でした。普段はそれは曖昧な境界線の中にとどまっていますが、何かがあるとすぐにあふれ出し、他人と一体化し、自然と一体化しようとします。「あはれ」とは、他人や環境と一体化せんとあふれ出した、蠢く自己の霊性そのものなのです。
●本当に深いため息は無音の声です(中略)。それが発信機としての「あはれ」です(中略)そして、その声なき声を聴く、それが受動機としての「あはれ」です。
この辺は、霊能者として、クライアントさんの潜在意識やら、思念やらに同期する仕事をしている身としては、なるほどなあ、と感覚的に理解できる部分ばかりでした。
よく「痛みを知るほど人にやさしくなれる」的なことが言われていますが、それって、結局「悲しみや痛みの引き出しが多いほど、人と同期するための端子が増える」ということなんでしょうね。
思えば、人と人とが深くつながる切っ掛けって、「身体レベルのネガティブ感情」を介してという時が多い気がします。
「悲しくて仕方ない」「一人ではどうにも処理しきれない」という時ほど、人は「誰かと強く繋がりたい」と思うわけで‥
受け取り手がそれと似た感情を持っていたり、経験したりしていた時にだけ、その思念を拾い上げることができる…
そんな風に出来ているのかもしれません。
欠落と矛盾
ちなみにですが、この本には、この「あはれ」とは、欠落している人から生まれるというようなことも書かれてあったのですが、「欠落」に関してはこんなことも書かれておりました。
「殻(体)としての体壁を持つ私たちは、自己以外との関係は必ず間接的にならざるをえません。
その関係性をより薄くしようとしてきたのが私たち「日本」人であり、(中略)自然に対しては、それを支配しようというよりも、身体を通じた直接的なやり取りをしようと努力をし、人との関係においても自然との関係をと同じく、境界を極力なくした直接的なやり取りをせんことを目指しました。
しかしどんなに頑張っても私たちは人間です。環境や他人と直接的なやり取りをするための粘膜(内臓系)を守る体壁という殻を捨て去ることはできません。
それでも「この殻を破りたい」と思ってしまう。
これが私たちの欲求の原初的な形ではないでしょうか。
(古事記の中で)スサノオが欲求しているのは、実現が絶対不可能な欲求です。
存在するはずのない母の「身」を求めるという絶対に実現しない欲求。(中略)これこそが「恋ひ(乞ひ)」に代表される思いの欲求であり、私たちのあらゆる欲求の根元に横たわっているものです。
この辺も、なるほどなあ~!!!の一言という感じです。
エネルギー的に見ると、人間ってそもそも「身体(物質=3次元)」の中に「魂(エネルギー=4次元以上)」を無理やり入れている状態。
なので、人間の形のままで、ありのまま(魂の状態)が再現できるわけがそもそもないわけです。存在からして、本来の姿を歪める形でしか表現できないし、矛盾だらけなわけです。
そして、人間とは、常に何かと繋がっている「エネルギー体」をわざわざやめて、自分を体という器に閉じ込めてまで、個として独立した体を持っている。
そこまでしたのだから、じゃあ「個で生きる」という生き物なのかと思いきやそうではなく(笑)
我々は、人との繋がりや社会の中でしか生きていけない動物として、デザインされているわけで…
「人と繋がりたいと思っても、完全に一体化することはできない」
「集団生活がつらく、ひとりになりたいと思っても、孤独では生きていけない」
のジレンマが生きる上でのベースとなっているわけです。
この辺の部分は、この本の中で言われている「絶対に実現しない欲求」「直接つながりたいけれど、出来ないという欠落」というところとリンクするなあと感じました。
実際に、セッション場面で、何かひっかかりがあるとか、苦しみがあるというクライアントさんの潜在意識を見たときに感じるのが‥
どの人も最終的には、誰かに対してではなく【自分の中の矛盾】に苦しめられていることがほとんど、ということ。
「好き」だからこそ「許せない」とか
「やってみたい」だけど「怖くてやりたくない」とか
「忘れたい」けれど「忘れてたまるか」とか
そういった感情の対立。
自分対自分の攻撃のしあい。
それが苦しみのコアにあるわけです。
対立の何が大変かって、一方を成就させると、どちらかは叶わなくなってしまうという点。
つまりは、どの道を選んでも必ず「欠落」が付いて回るということなんですね。
ベースに矛盾や欠落があるからこそ、どこまでも目の前の現実に、矛盾と欠落が反映されていく。
それは人間のある種の業であり、娯楽であり、そして場合によっては、生存のために必要なシステムですらあるのかもしれないなあ、とこの本を読んで改めて感じました。
繋がりたいからという理由で、悲しむ人もいる
そして、「境界を越えて、繋がりたい欲求」というのも非常に納得です。
というのも、「常にトラブルや困難が続いていて、ずっと同じようなことを繰り返す、トラブルが解決できるチャンスがあってもなぜか自分から見送る」…という状況の方も、この世にはいらっしゃるのですが
『あはれ(あふれ出た嘆き)が、他者と深くつながるための端子となる』のであれば、
ただ「ひとと繋がっている感覚」を得ることだけを目的として、苦しんでいるというパターンもありうるなあ、
ということも、私の中での気づきのひとつでした。
そういう場合は、正直なところ、悩みや苦しみの中身はなんでもよいんですよね。
自分の中にブロック(自分の中にある決めつけや、自分で自分を縛っているルール、癒されていないトラウマなど)があると同じトラブルの繰り返しになる、ということは結構良くあるので、
「そういう現実がもし嫌なら、ブロックを手放したほうが楽に進めますよ」
という話をすることも多いのですが…。
そもそも論として、「繋がっている感覚だけ得られれば、それでいいや」という場合は、それはそれで娯楽としてアリなのかもしれませんね。
「繋がりたい」のその先へ
で、そのうえで、ここからは私の超個人的な意見を書いていきたいと思います。
というのは
「セラピストという仕事をやるからには『同期のその先を目指したいよなあ』」
ということ。
我々は、あはれを入り口にして深く人と繋がることができる。それならば、自分の中の「あはれ」を大事に取り扱えばいいし、自分の中の痛みや傷や挫折も恥じる必要はないでしょう。
そして、それをすることで相手の痛みも初めて肯定できるとも思います。
ただ、繋がって「安心するね」「私は間違っていない」だけでは‥
おそらくいつまでも景色は変わってはいきません。
前述したとおり、人生の楽しみ方は様々。
なので、先に進むのが正しいわけではないのですが、
私個人としては、せっかく生まれてきたからにはいろんな景色が見たいなあと思うし
「同期できた、しっかりと繋がった」ということを入口に『じゃあその先に何ができるのか』というところに興味があるなあと思っているんですね。
セッション業の醍醐味を私は
「一人では起きえないこと」をいかに起こすかというところに感じています。
分かり合えて安心したとかうれしいとか、問題が解決したとか、そういうのももちろん素晴らしいんですが…
『えっ?!すごい!今の何?!どういうこと?!(興奮)』
みたいな普段起こり得ない、壁抜けみたいな現象とか、
なんなら自分たちにも死ぬまで認識しえないレベルで起きている物事に対して関心があるわけで、
それを「人間」という制限の中で、いかにして呼び込むことができるのか、
というところにわたしは非常に興味があるんだなあ〜
ということをこの本のおかげで、言語化して認知することができました。
我々は欠落を持って生まれ、欠落したまま死にます。そして、「得られないものを求め続ける」というある種の呪いは終生なくならないでしょう。
ですが、この世とは自分の潜在意識の反映であるという考え方に基づくならば、
我々はわざわざ「この状況を作ってそこに生まれてきている」ということになります。
なので、「求めたものが得られない矛盾」や「どっちを選んでも何かが欠落するという前提」の元にしか、起こりえない現象や奇跡(それはバグともいえるかもしれません)が、この世にはきっとあって、
それは、「あはれを介して人と同期はできるけれど、でも、個体としての体と意思を持つ」モノたちが、「あれこれ面倒な問題と折り合いを付けながら複数人で行う」ということでしか、
おそらく、なしえないことではないかなあと思うのです。
書いているだけで面倒くさくなりますが(笑)でも、この面倒くささがないと起こらないことが必ずあるわけで
せっかく、このクセの強い特殊な「人間というハード」を持っているからには、このハードでしかできないことをぜひともやってみたい。
そんな風に私は思っています。
ガチ同期は奇跡を起こす
とはいえ‥
こんなことを言えるのは、私が本当に深いレベルで「同期」できていないからなのかもしれないな〜とも思います(笑)
本当にコアの部分まで相手と同期することができたら、その先とかそういうのも含めて何もかも解決して昇華されていくのかもしれませんね。
この本でも、イエス・キリストが、悲しみと同期することで死者を生き返らせたりしていたことに触れていましたが
そこまでガチ同期ができれば、また全然見える世界は変わっていくのかもしれないなあ…
そんなふうにも思ったのでした。
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