一人だと老後が寂しいよ、を真剣に考えてみる

私は離婚後、再婚を勧める方たちからこの言葉を何度か言われました。

一人だと老後が寂しいから再婚した方がいいよ

私は離婚当時まだ二十代で、保育園児だった子供のお世話と目先の生活で精いっぱい、老後のことなんて考えられなかったし現実味がありませんでした。

では、子供がそれなりに手を離れ、自分自身も老後が少しずつリアルに感じる年齢になった今、この言葉をどう思うか考えてみます。



結論① 数十年先のことは計画通りにならない



平均初婚年齢の三十歳で結婚したとして、老後を六十歳以降と定義します。

その間三十年。

三十年先のことを予想できる人はいません。

不幸になるために結婚する人はいないので、結婚する時点では当然夫婦で幸せになろうという気持ちはあるはずです。

でも人間は変わるので、老後を迎えるまでの三十年間で考え方や人柄が変化する可能性は十分にあるし、お互い思いやって努力し続けようと本気で思っても、事故や病気に見舞われ人生が一変することもあります。

三十年、あるいはそれ以上先の孤独を想定し、それを回避する目的で結婚したとしても、そのプラン通りの人生にはならない可能性の方が高いのです。

そもそも夫婦同時に他界することは少ないので、結婚したとしてもどちらかは遺されます。

双方が生きていても、夫婦関係が冷え切っていればそれは別の寂しさや不満が蓄積されます。

これらの要素から、若い頃「老後が寂しくならないように」結婚したとしても、その目的が達成できるとは限らないのが現実です。



結論② 幸せな老後は意図的に作れるのではなく結果的にそこに在るもの


私の両親は健在ですがかなり高齢なので、最近は

片方が他界した時、遺された配偶者や家族はどうするか

という話を度々しています。

両親の意向で子供たちは誰も同居をしていません。

それでも、実子義理合わせて三人の娘が「いざという時の対応」を気にかけていて、両親はそれを幸せだと言いながら夫婦二人で暮らしています。

子供の側から見ても、離れて暮らす子供たちがそれぞれの暮らしを生きながら、時々親を心配して声をかける今の形に、「こういうのが幸せなんだろうな」と感じます。

でもこの家族関係になったのは結果論です。

「老後はこういう家族関係でいたい」と望んでも、親や子供どちらかが一方的に決められるものではありません。

血が繋がっているとはいえ、それぞれ異なる考えを持ち生活を抱える人間が、数十年の関係性の積み重ねの結果今の形に至っているのです。

結婚して子供を産めば自動的に将来こうなる、なんて単純なものではありません。

そこには、たとえ身内であっても努力や葛藤を乗り越える意志があるのです。



幸せをもたらすのは決意


改めて分析すると「こんなの当たり前だ」と思うようなことですが、

結婚すれば老後が寂しくない

恋人ができれば幸せになれる

という、「それは必ずしもイコールではない」言葉を理由に判断や行動をする人は実際にいて、私に「一人だと老後が~」と言った方たちもそうなのでしょう。

今孤独を感じている人が、恋人がいれば、結婚すれば孤独感から解放されて幸せになると思っても、そうならない現実はあります。

共に過ごすパートナーができて、かつ二人で幸せな時間や経験を積み重ねよう、それに必要な努力をしようと心に決め実行するから、幸せになるのです。

使い古された言葉かもしれませんが

一人でいる時の孤独より、誰かといる時の孤独の方が辛い

は事実です。

私は個人的に、子供が自立するまでは再婚しないと決めています。

子供の自立までまだ数年はあるので、今のパートナーと再婚するかどうかは分かりません。

私はこれまで自分の経験から、婚姻届まで出した二人でも別れることがあるのだから、付き合おう結婚しようなどの口約束にはあまり意味がないと、かなりドライな考えでいました。

事実それらの言葉に拘束力はありません。

でも最近では少し変化があって

現実的に未来がどうなるかは分からないけれど、真剣に考えた結果として『共にいたい』『共に生きたい』という言葉を口にすることには意味があるんじゃないか

と思うようになりました。

長年生きていれば、先のことなど誰にも分からないし確実な約束などないと何度も思い知る、それが人生です。

でも未来は不明瞭だと知った上での「一緒にいたい」という言葉は、「どんな未来であっても一緒にいる」という覚悟を意味し、重みがあるんじゃないかと感じるのです。


パートナーさえいれば幸せになれるのではなく、パートナーとなる人と向き合い、理解しようと努め、共に生きると決意すること、それが幸せに繋がるのだと思います。

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