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【取材記事】ボツワナで起業するため、42歳でアルバイトから再挑戦した人

住みたい国はありますか?なんでも叶う世の中だったらなにを望みますか?

アフリカ起業、現地の人とビジネスを作る生き方に憧れるあもかは、この半年で20人以上の方に人生を聞かせてもらっています。

どんな基準で決断をするのか、若いころに戻れたらやりたいことはなにか、大切にしている言葉や思い出はあるのか。

十人十色の答えが返ってきて、その道を選んだからみんな今がある。

今回はエンジニアとして日本で10年以上働き、30代のときに、青年海外協力隊でボツワナへ派遣。もっとボツワナでやりたいことがあると、アルバイトとして0から経験を積んで、5年の準備期間を経てボツワナへ舞い戻った男性の人生をのぞいてみよう。


電気工学は合わないから、エンジニアになろう。そう決めて進んでみたら10年経ってた

今回話を聞かせてくれたのは、遠いアフリカの地ボツワナで起業した雨澤さん。Tankiii という家事代行やベビーシッターなど、手を借りたい人と働きたい人を繋ぐスキルシェアサービスを展開している。

近所のお兄さんのような親しみやすさで、ITが全くわからない私にも丁寧に説明してくれた。エンジニア生活だった人生を変えるためにボツワナへ飛び、まさかまさかの現地で起業をした男性。

なぜ日本でのエンジニアから、アフリカへ世界が変わったのだろうか。

「はじめまして。私はいま、ボツワナでサービスを提供したい、してほしい人同士を繋ぐ仕組みづくりに取り組んでいます。

もともと中高はそこそこ勉強ができる方で、普通に生きていました。そして大学は電気工学科に進学したんですが、外国語なのか?と思うほどなにを言っているかわからなくて、ついには留年したんです。

何度読み返しても、どれだけ真面目に授業を受けても理解できない。これでは電気系でのキャリアは無理だと悟り、他の職種で就活することにしました。

じゃあ何になろうって考えたとき、2000年前後の当時って、少しずつインターネットやITが普及してきた頃だったんです。今だと情報通信やエンジニアなど、特定のスキルや知識を学べる学科があるかもしれませんが、当時はざっくりと門徒が開かれている状態だったので、専門知識がなくても挑戦できると考えてエンジニアになることにしました。

卒業後はインフラエンジニアという職種をしていて、簡単に言うと、企業ごとのインターネットの構築やセキュリティ管理です。

そんな生活も、気がついたら30代半ばに差し掛かって、これからのキャリアで悩むようになったんです。」

一生エンジニアでいるのか。自分のアイデンティティがわからなくなり、壊したくて協力隊に参加した

エンジニアとして働いて10年以上経って、生活はできていたものの、名前がわからない違和感を強く感じるようになっていたそう。その原因は、働き方に隠されていた。

「自社サービスをしていて、社内にエンジニアがいる会社もあれば、出向という形で他社に派遣されて働く会社もあります。

私は後者で、数年ごとに色々な会社に在籍して、その会社内のサービスや仕組みをエンジニアとして支えることが仕事でした。

いろんな会社で働けて、知識や経験を積めるというメリットもありましたが、出稼ぎに近い形だったので数年後は違う場所にいるかもしれない。どこが自分の居場所なのか、どんなキャリアを築けるのかが分からなくて悩み始めたんです。

どうすれば解決できるんだろう思ったとき、自社サービスがあるところへの転職を考えたものの、エンジニアよりプログラマー募集の方が多かったんです。

キャリアに迷走した結果、極寒の中で滝に打たれて気絶しそうになったり、自分探しで有名なインドに行ったりもしました。考えまくった末に、いっそ、海外に行ってみた方が価値観や自分の世界を変えられるんじゃないかと思い、協力隊をしてみたいと考え始めました。」

「ボツワナ人は働かない」派遣された隊員が口を揃えてそういう中、見た世界とは

同じ職業の中で転職しても、いずれ同じような悩みが生まれそうだと感じた雨澤さんは、価値観を壊したくて日本を出ることを決めた。2016年、協力隊としてボツワナの職業訓練校で2年間、コンピューター技術隊員として活動した。

「ボツワナでの主な活動内容は、学校でのインターネットの管理や若者へ技術を伝えることでした。

現地ではNGOや政府組織のIT管理に関わることが多く、ぶっちゃけ仕事があってそれなりの給料をもらえてる彼らは働かないんですよ。『やり方教えるよ』って言っても、『いいよ、困ったら君たちに来てもらうから』って言って、ずっと横でYouTubeを見てるんです。

それでも給料がもらえて、一方自分は生活費は出るもののボランティアとして活動する日々。何しに来たんだろうっていうモヤモヤは常に感じていました。

隊員によっては現地スタッフの協力がないと活動にならない職種もあるんですが、ITのいいところは自分ひとりで仕事が成り立つことなんです。無理に折り合いをつけるよりは、与えられたことを黙々とこなして、自分のペースで周りと関わるようにしました」

仕事への関わり方の差を感じながらも、与えられた地域で動き続けた。「ボツワナ人は本当に働かない」とどの隊員も口を揃えて言うほど、仕事への価値観や基準が違う国で、なぜもう一度ここに来て起業しようと思ったのだろうか。

「活動中、学生たちに『卒業したらどんな仕事に就きたいの?』って聞いたら、みんな『この分野の講師になりたい』って言うんです。

日本だったらエンジニア、プログラマなどITの会社で働くっていう選択肢があるけど、この国にはそもそもそんな会社がないんですよ。だから学んだことを活かすには講師になるしかない。それがすごく衝撃的だったんです。

どうにかできないかなと思っていた時、自称プログラマのインターン生が、私と一緒にWebサービスを作りたいと言ってきました。土台作りがメインなインフラエンジニアである自分と、Webサービスを作れるであろう自称プログラマの彼。少し興味が湧きました。

しかし、いざ話を進めようとすると『私はあなたをアテンドしたり、通訳とかのサポートをするから、プログラミングはあなたがやって』と言われました。

え???ってなりますよね。笑
いや、じゃああなたいらないじゃんって思ったのと同時に、確かに地道に学習すれば見えっ張りな彼よりできるプログラマになれそうな気がしました。

この国はインターネットには繋がるけど、Webサイトが殆どないんです。少し前の日本と同じようにIT革命が始まる雰囲気が感じられ、この国でWebサービスを作ってみたいと思うようになりました。」

40歳のとき、プログラマを目指して、アルバイトからもう一度走り始めた

2018年に帰国してからは、プログラミングをイチから勉強し始め、アフリカで起業している人たちの講演会やイベントに参加して、同時並行で学び続けた。帰国して知識や経験を積み、起業してアフリカに戻るまで5年かけて挑んだ。

「帰国してからはひたすら勉強しました。知識はついたものの、大変なのはここから。即戦力として捉えられてもおかしくない年齢の、40歳を過ぎた未経験者を雇ってくれる会社が見つからないんです。

笑えるほど受からなくて、アルバイトでも落とされて、なんとかアルバイトで受かった会社では、テスターというプログラムに問題がないかチェックする仕事でした。

勉強に費やした時間と労力をどうにか回収したくて、「半年後くらいにできてればいいね」って言われた業務を1ヶ月でできるようにして、テスターとしてもっと仕事をくださいってアピールをしたり、離れた席のプログラマの社員の人たちに話しかけたり。自分もプログラマになりたいことを伝えると『やってみる?』と少しづつ開発の仕事を任せてもらえるようになったんです。

アルバイト時代の雨澤さん

そもそも社員たちはテスター枠のバイトと関わる機会がなくて、できるとも思われていなかったんです。アピールしてチャンスをもらってからは、少しずつプログラマとしての仕事をもらえるようになって、最終的には正社員になることができました。」

これから先に続くアルバイトたちにむけて新たな道を切り拓いた雨澤さん。その後、彼に続いて社員になれる人が増えたそうだ。

協力隊を終えて5年以上、プログラミングから勉強し直して、バイトから正社員になった。

挑戦し続けるその情熱はどこからきているのだろうか。

「ぶっちゃけプログラミングを勉強し直すのはしんどい時期がありました。何年後までにこうなって、そのために何ヶ月後はこのスキルを習得して、とか理想から逆算するのは向いてないなと思っていたので、いまできることから少しずつやり続けるようにしました。

そこでまずは、2年その会社で働いて知識と経験を増やすことに集中しました。その後アフリカのモザンビークで事業をしている会社に関わって、自分も一時期住んでみたり、次第にフリーランスになっても大丈夫だなと思ったので独立して、働きながら起業資金を貯めました。

モザンビークの人々

私は100万円貯めた段階で法人化したんです。もっと貯める人が多いと思いますが、これ以上時間をかけると情熱がなくなって、ずっとフリーランスでいいやって思いそうだったので、まずは動いてみようと思いアフリカに帰ってきました。」

協力隊時代に少しずつ思考を整理して、帰国後5年かけて育んだ夢への挑戦。前よりももっと役に立てるはずだ。ビジネスチャンスを掴みたいと意気込んできた生活は、たくさんのギャップに溢れていた。

5年ぶりのアフリカ生活で、人を雇う難しさを知った

「アフリカといっても、50ヵ国以上ある大陸です。まずは住んだことがある馴染みのある場所からと思い、ボツワナに戻ってきました。

5年ぶりのボツワナ生活

協力隊の任期を終えて帰国する直前、親しくなった人たちがどれくらいインターネットになれているのかを改めて知りたくて、WordPressというCMS(Webサイトを簡単に作成できるツール)を使って家電や日用品をオークション形式で売ってみたんです。

落札時間が近づくにつれてサーバの負荷が高まりハングアップしてしまい、思ったより何倍も安く売るハメになりましたが、彼らは想像以上にネットを使いこなせていて、メルカリのように個人間で物の売買ができるサイトがあれば流行るんじゃないかって思うようになりました。

ただ現実的に考えたとき、物流がまだ日本のように整っていないことや、自社で物流を賄うにはそれなりの初期投資が掛かると思いました。じゃあどんなサービスだとボツワナにフィットするだろうか。

協力隊時代、家政婦などの仕事を求めて尋ねてくる人がいました。フルタイムの仕事を持っている人が、簡単な仕事をPiece jobという形で分け与える文化があります。自分もこの文化を尊重したかったものの、盗難等のリスクの方が大きいと聞いていたこともあり、依頼することはありませんでした。

そこでユーザーの星評価やレビューを見れるようなサイトなら、リスクを軽減できて必要とされるんじゃないか?と思い、スキルシェアサービスを立ち上げることにしました。」

小さな問題は日常茶飯事。90日と思っていたビザが、実は30日で受理されていていつの間にか不法滞在になっていたり、現地スタッフを雇ってみたら嘘か本当か身内が毎回エマージェンシーで来なくなったことも。そんな状況をひとつひとつ解決し続けると、4人目にしてやっと並走できそうな仕事仲間ができた。

「トラブルは当たり前ですが、次第にそれをトラブルだと思わなくなり始めています。不法滞在のときは罰金を払って、滞在をMAXまで伸ばしてもらいました。

少し落ち着いてから昔からの友人や、その人の知り合いなどを4人ほど順番に雇用しましたが、掃除以外してもらえることがなかったり、本当かわからない理由で何度も何日も来なくなったりして、ボツワナ人を雇うことの難しさを感じました。

どうやって辞めてもらったら相手が傷つかないのか、よい伝え方は今も模索中です。あ、スタッフの1人が辞めるときは貸し出してたラップトップや備品が戻って来ないこともありました。笑

いまは住んでる家の大家さんの娘さんに働いてもらっていて、彼女が期待してた以上に成果を出してくれるので、やっと求めていた働き方に巡り会えた気がしています。」

安心して仕事を教えて任せられる人に出会えた雨澤さん。これで事業に集中できると思いきや、新たなる壁が立ちはだかった。

異国での起業はそう簡単にうまくいかない。届けたい人たちに届けられないもどかしさを感じている

「正直なかなか順調とは言い難いですね。というのも、想定よりもインターネットが普及していないんですよ。

ボツワナ街並み

Facebookで広告出稿してエンゲージメントは悪くないものの、全然登録されない時期があったんです。WhatsAppやFacebookにのみ繋がるプランはみんな加入しているんですが、それ以外のWebサイトにも繋がるプランだと一気に金額が上がるので、スマホやラップトップからはアクセスしない/できないようです。

資金も終わりが見えはじめたので追加の融資の相談と、ターゲットをもう一度見直す必要があるなと感じています。

今までは完全に事業にコミットしていましたが、生活のためにも週数回はフリーランスとしてリモートで働いて、それ以外の日に事業を動かすという方がいいのかなと思ってきました。

それと、失敗も成功も発信して次の人たちのハードルを下げたいと思っているんです。

起業という道の世界への不安を感じていた頃、アフリカでビジネスをしている人たちにたくさん話を聞いて、不安を解消していきました。

成功は運かもしれないけど、失敗には共通点や、避けられるポイントがあると思っています。ありのままを発信することで、誰かにとって必要な情報になるかもしれない。

自分の事業がうまくいって、もっとたくさんの人や国にサービスを提供できるのが理想ですが、次の世代に繋げられたら、もし結果だけ見ると失敗しても、それは報われるんじゃないかなと思っています」

イメージしやすいようにたくさんの例とともに仕事や経験を話してくれた雨澤さん。走り続けたなかで、取り逃した後悔はあるのだろうか。そして、今までの人生をどう感じているのだろうか。

全てにタイミングがある。そのときだから挑戦できて、全てがいまに繋がっている

「海外で3年以上生活していますが、いまも正直英語での意思疎通に苦労していて、もしも昔に戻れたら、幼少期から英語を勉強したいです。

『もっと早くからプログラミングを勉強していたら』って思うこともあるけど、当時の自分に合うタイミングじゃなかったと思っています。

20代前半のとき、プログラミングに憧れたもののすぐに断念しました。あれから何年も経って、先人たちが知恵を絞ってフレームワークというものを作り出し、簡単なコードでより多くのことが実行できるようになったり、わかりやすい伝え方が増えたことで、時を経て自分のものにすることができたと思います。

全てタイミングだな。自分に合うときが来るんだな。と今振り返ると感じますね。

起業当初に思い描いていた未来とは違いますが、まずはこの国でできることを全部やって、結果を残したいです。

一歩を踏み出した時点で少し進んで、やる前より何かは変わっているはずなんです。苦しくなることもあるけど、心折れるまでは、まだ踏ん張れると信じています。2025年も、この国で足掻いてみます」

編集後記事

週に3回程度受託開発という仕事で生活費を稼いででも、この仕事をやりきりたい。ボツワナで生きていきたいという思いと強さを分けてもらった(追記:融資がおりたので事業に専念するとのこと。おめでとうございます。)

いま頑張らないと。あれもしないと、これもしないと。と生き急いでいるあもかは、雨澤さんの人生を聞いて「全てを今やる必要はない。先延ばしにしたことも、いつか必要なときに帰ってくる」ということを教えてもらった。

異国で、外国語で人と関わる大変さと、やりたいことに挑戦したことで、辛くも楽しい日々を過ごせている雨澤さんをみて、自分もそうなりたいと刺激をもらうことができた。

自分に何ができるのだろうか。これからも人の人生を聞いて、考え続けてゆきたい。


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