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【取材記事】諦められなかった。協力隊員になるために先生になった女性のはなし

青年海外協力隊って知っているだろうか?「人生なんて、きっかけひとつ」「いつか世界を変える力になる」などのフレーズでCMやインターネットで知られている。

国際協力機構(通称JICA)が50年前に始めたもので、そのうちのひとつが開発途上国で2年間自分の経験や知識を活かして、その国や地域の問題解決に取り組むプログラムである。

コミュニティ開発や医療関係など、9つの分野で120以上の種類があり、今まで91カ国に5万人以上を派遣してきた。

テレビでよくみるアジアやアフリカの途上国での日本人の姿。実際に現地で活動している人たちはどんな人生を送り、どうやってその大陸までたどり着いたのだろうか。

2023年からJICA海外協力隊(以降協力隊)でボツワナで小学校教育活動をしているJさん。日本で小学校の先生として働き、アフリカのこの地へやってきた。

「途切れた夢をもう一度叶えにきた」と話す芯が強くもあり、穏やかな雰囲気の女性だ。

そんな彼女の色鮮やかな人生を紐解いていこう。

ボツワナ🇧🇼の基本情報
人口 267万人(2023年:世銀)
民族 ツワナ族(79%)、カランガ族(11%)、バサルワ族(3%)等
言語 英語、ツワナ語(国語)
宗教 キリスト教、伝統宗教


幼いころから憧れた協力隊。やっと叶えた夢は、コロナに奪われてしまった


「わたしは2023年の春からボツワナの小学校で、海外協力隊のプログラムとして子どもたちに算数を教えています。

名古屋で育って大学を卒業して、そのまま小学校の先生として働いていました。2019年の冬に海外協力隊員としてこの学校に派遣されたんですが、新型コロナウイルスが広がり、任期途中で帰国になったんです。

あのとき途中で帰らざるを得なかった夢を、3年越しに叶えに戻ってきました。」

愛知県で10年以上、小学校の先生として働いていたというJさん。高校生のときには、「将来は学校の先生になろう」と決めていた。そのきっかけもまた、協力隊だった。

「海外で長く暮らす親戚がいて、なんとなく子どものときから海外で働くことへの憧れがありました。そして小学生のとき、社会の資料かなにかで協力隊のことを知ったんです。

イメージ図 2023年募集ポスター

もともとやりたいことを決めたらどうなっても叶えたい性格なんです。写真に映る人たちの姿がカッコよくて、自然と『これがしたい』と思いました。

そんな夢でしたが、『なんのスキルもないのに現地に行ってどうするの』と家族に言われたんです。新しいことを知って人に伝えることが好きだったこともあり、『じゃあまずは日本で先生になって経験とスキルを積んで、協力隊員になろう』と決めました。」

学生時代、ほかの夢を描くことはなく、協力隊員になるために学校の先生になると一直線に進んできた。そして大学を卒業し、地元で小学校の先生になった。

日本での先生としての日々。慌ただしく刺激的な毎日が始まった。


「教師生活は想像より忙しかったですね。笑
わたしの市では、はじめの6年間は同じ学校で働くんです。辞めたいと思うことも何度もありました。

子どもたちの成長を目の前で見れる喜びを糧になんとか働いて、5年目の2018年に協力隊に応募しました。国にこだわりはなくて、『アフリカでもいいですか?』と聞かれ、『どこでも大丈夫です』というとボツワナ派遣に決まったんです。」

派遣が決まってはじめて、ボツワナという国を知った。アフリカと聞いて、発展途上というイメージをふと思いついた。全く知らない国だったが、彼女は希望で溢れていた。

「10年以上憧れてた夢が叶って、そのときは本当に嬉しかったんです。協力隊員に選ばれると、数ヶ月間事前準備で100人以上の同期と国内で合同訓練があります。

そこでたくさんの同期と話をして、みんなの今までやこれからを聞いたとき、協力隊がゴールだった自分はこれが終わったらなにをして生きるのかと考えるようになりました。

自分なりに考えて、帰国後日本の子どもたちにアフリカでの生活を教育を通して還元したいと思ったんです。」

やっと叶ったアフリカでの協力隊生活。不安を抱えながらも、帰国後の夢にも向けて教師としての籍を残したまま日本を飛び立った。

はじめてのボツワナ

しかし、新型コロナウイルスの影響でわずか4ヶ月ほどでの中断と帰国を余儀なくされる。

「コロナで帰国しないといけなくなって、復職しました。教師になって7年目だったこともあり2校目での教員生活が始まったんです。

コロナの影響で今までより制限が増え、新しい人間関係を築くのにも疲れていきました。子どもや保護者の対応に追われる日が続き、コロナが落ち着いてきたころにボツワナで同じ枠の募集を知りました。

途中で帰らざるを得なかった悔しさがずっと残っていて、やっぱりもう一度協力隊員になりたいと思い、再応募して2度目の合格を受け取りました。」

諦めきれなくて、二度目のボツワナでの日々が始まった。

2023年の春、協力隊員として再びアフリカの大地に降り立った。あのころと同じ町で、同じ学校で、再び算数の先生として働くことが決まったからだ。

「憧れの日々がもう一度やってきて、ワクワクで溢れていました。2019年の派遣時に2週間ほどツワナ語の研修がありましたが、十分には話せないのでこっちでは主に英語で会話や授業をしています。」

英語で働き、生活しているJさん。アフリカでの先生としてのキャリアの再スタートを切った。ボツワナは周辺のアフリカ各国に比べると、政府の教育支援が徹底されていて、子どもの就学率は90%以上を占めている。

2018年度の就学率は小学校94.5%、中学校93.7%%、高校66.9%を誇っています

JICA トピックス&イベントページより

制服代と通学カバンは家庭で用意する必要があるが、Jさんの学校ではそれ以外で親が支払うのは年間500円ほどだそうだ。

ちなみに、ボツワナの平均月収は2022年時点で519ドル(8万円前後)

CEIC Data

小学2年生から授業は英語で行われる。給食が食べれて、鉛筆などの貸し出しもある影響か、平日に子どもが学校に行く生活が当たり前に送られている。

「ボツワナは日本のように学級担任制で、先生が全教科教えていて、わたしはその一部の時間を分けてもらって子どもたちに算数の基礎を教えています。具体的には掛け算を暗記できるようにしたり、いままで習ったことを一緒に復習したり。

日本で先生をしていたころから、どの子どもにも平等に関わろうと決めていたので、その気持ちは国が変わっても持ち続けています。

実は、この国は季節ごとの大まかなシラバスはありますが、授業時間のきまりがないんです。朝から夕方まで、昼食をのぞくと休憩なしでぶっ通しで授業です。

先生はその日に教えたい教科をやって、生徒も必要に合わせてトイレや水分補給をしています。日本みたいにみんなで遊ぶ時間はなくて、先生がほかの先生と話すために教室からいなくなるなんてことも普通にあります。笑」

まさかの一面。日本では授業中に先生がいなくなるなんてことはほぼないだろう。当たり前の基準が大きく異なるのかもしれない。ほかにも文化の違いを感じたことはあるのだろうか?

この国で生きて感じた人のめんどくささと優しさ

「わたしの周りの人は良くも悪くもみんなゆったりと生きているんです。学校の勤務時間は基本的に7時から15時までで、子どもが帰ったら先生も帰るので、夕方以降に自分の時間がすごくあります。わたしは家に帰って授業の準備をしたり、趣味の裁縫をしたりしています。

働きすぎないからなのか、日中から飲んだくれてる男性をよく見ます。なぜか男性の方が多いですね。すぐに声をかけてきて『彼氏いないのなら俺と結婚しよう』って言ってきます。タクシーの運転手さんに言われたりも。慣れてからは適当に交わす術を身につけました。笑

めんどくさい一面もありますが、キリスト教の人がほとんどだからか、お互いを気遣って助け合うのが当たり前の文化です。

基本はタクシーで通勤しているんですが、時間帯が合うと他の同僚何人かと一緒に、車通勤の同僚が乗せてくれます。毎日だと迷惑かなって勝手に思っていたんですが、持っていない人が持っている人に分けてもらうのは遠慮することじゃないと知り、すっかり日常になりました。他の同僚も送ってもらったあとThank you も特に言わないのは驚きでしたね。」

街の様子

足りないものは分ける。

手に入れるためにもっと働いてお金を貯めないといけないとつい考えてしまうわたしにとって、どこか忘れかけている感情な気がした。

日本にいたころは人間関係に悩んでいたJさん。ボツワナでは一度目の派遣で一緒に働いた同僚が覚えていてくれて、自分のペースで親しくなることができた。

なんのためにいるのか。これからどう生きていきたいのか

おだやかな毎日を送るJさん。アフリカという日本から遠く離れた大陸での生活は、異生活を知り、自分自身とも向き合う時間になっていった。そして、新たな悩みも生まれた。

「協力隊は仕事というよりはボランティアです。生活に困らないほどのお金はJICAからもらえますが、ほかの先生や日本で働いていたころのように担任を持つわけでもなく、担任の先生の業務の一部なので仕事の内容だったり責任感も昔よりは少ない気がしています。

ボランティアひとりにできることって限られていて、引き継ぐ人も特にいなくてわたしがいなくなったら先生の仕事に戻るだけ。何のためにここにいるんだろう。って体調を崩したときや、ふとしたときに思います。

時間をかけて気持ちに折り合いをつけて、『何もしないよりは何かは残るかもしれない。だれかの記憶だったり、子どもの将来に少しでも役に立ってくれれば。』と願って今も教え続けています。」

授業風景

なんのために働くのか。きっとだれもが一度は考えたことはあるだろう。アメリカで人様の子どもを育てているわたしも、わたしじゃなくても良いよな。とよく考えることがある。

これが終わったらどこで何をするのか?と先が見えない不安にも襲われる。Jさんはそんな不安を抱えながらも、将来へ少しずつ動き始めていた。

「国名も知らないでやってきて、実際に1年半生活して日本との違いをたくさん感じました。外国人のわたしも医療費が無料だったり、学校に来る子どもの多さに驚いたり。

協力隊の同期とジンバブエやナミビアを旅して、ボツワナも含めて想像以上に発展しているアフリカへの印象が大きく変わりました。

これからも教育に関わりたいなと思っていて、実は今回も籍を残したままこっちに来ているので、まずは日本の小学校で先生に戻ろうと思っています。」

ナミビア旅

そう語る一方で、日本の働き方への疑問やもっと学びたいという意欲も生まれていた。

「ボツワナでの生活は、日本でたくさん残業して、身を削って働く生き方は自分には向いていないと気づかせてくれました。いま思えばあの生活は息苦しかったのかもしれない。それさえも分からなかったんです。

この町はわたしに新しい視点と、いままでの自分を見返す時間を与えてくれました。ゆくゆくは大学院にいって、教育や子どもの権利などをもっと深く考えたいなとも思っています。

あと半年の任期では、いままでのように子どもたちと関わりながら、掛け算や復習する習慣を、ほかの先生に引き継いでもらえないかアプローチしようと思っています。

10年以上思い続けた夢を叶えて、新しい目標ができたり、幸せな毎日を送ることができています。やりたいと思ったときが行動を起こすタイミングだと思うので、なにかくすぶった夢や気持ちを抱えている人はぜひ動いてみてほしいです。」

コロナを乗り越えてもう一度挑戦した姿をみて

わたしも、コロナでアフリカを周遊する夢を絶たれた。とりあえず会社員になって、たくさん悩んで考えて、日本での社畜生活に限界が来てアメリカに逃げた。

アメリカで生活して5ヶ月。やっぱりアフリカに行きたい自分と、やっと出会えた恋人と一緒にいたい自分と葛藤する日々が続いている。

Jさんの話を聞いて、世界の教育現場を自分の目で見たいという欲が湧いてきて、その気持ちを忘れないように、事あるごとに「この後はアフリカを周遊したい」と周りに話すことにした。

任期を終えた自分がどこにいるのかさえイメージがつかない、漂流したような感覚になることもあるけど、社畜時代にさよならを言えたことは本当に良かったと思っている。

人生の選択肢を増やすためにも、抑えきれないワクワクを味わい続けるためにもだれかの人生を聞く生活はどうやらやめられそうにない。

次はオペアに挑み、2ヶ月でその生活を手放した女性の話をのぞいていこう。

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