かりそめの楽園

息子の為だけを思って開いたその扉の先にあったのは、私の為だけの楽園だった。

息子は一歳半健診で発達の遅れの可能性があると指摘された。
そして本年度、彼の特性にふさわしい診断名を頂いた。
診断を受け提案された、週2回の親子通園。
その初日を迎えたのは2023年12月、息子は2歳9ヶ月になっていた。

療育園に通うまでの間、私と夫なりに調べたり考えたりして、息子の良さを伸ばす取り組みをあれこれ実施していた。
そのどれにも手ごたえを感じたことはなかった。
しかし通い始めて以降の息子の成長は目覚ましいものであった。
意味を理解した上で喋れる単語が大幅に増え、ごく稀に言葉を2、3個続けて喋ることも出てきた。
部分部分だが、歌を歌ったり、ダンスの振り付けを真似するようになった。
食事の前の数分であれば椅子にジッと座っておくことができるようになった。
どれもこれも、それまでの息子からは考えられないことばかりだった。

私は息子の成長に歓喜し、支援のプロの素晴らしさを実感した。
これこそが親子で通園する意味、これのみが私がここに来た目的だと思った。

療育で得た情報を息子の日々の生活に活かすことだけが。

来年度からの療育通園は最多週1しか通えないことが決まっていた。
親子ではなく、息子だけで通うことも。
つまり来年度からは、私自身の目で息子の成長を見る場面が大幅に減ってしまう。
そうすると、支援のプロのどういう言動が息子に響いたのか、直接この目で見られなくなってしまう。
無知な親だけで試行錯誤していた日々に逆戻りしかねない。

それに気付いて以降、私は療育中、先生方の言葉遣いに耳を傾け、扱うアイテムを注意深く観察した。
家で療育園と全く同じことはもちろんできない、しかし取り入れられる部分は必ずあるはずだ。
実際、絵カードや指先遊びのおもちゃ、言葉の言い回しなどは、療育園と同じものを家でも取り入れている。

療育のプログラムの一環として、子が親から離れて過ごす時間があった。
その間、保護者達は連れ立って昼食を買いに行ったり、複数のグループに分かれて喋ったりして過ごしていた。
彼らと関わることでしか得られない情報がある。
そう思った私は、いわゆる『親子分離』のその時間、最低数分、時にみっちり1時間、意識して他の保護者と関わる時間を設けた。
話したことは、他愛ないエピソードから育児の悩みなど、様々。
どこの幼稚園が良いとか、どの療育園が入りやすいとか、いわゆる『ママ友ネットワーク』情報は彼らからしか得られないものだった。
しかし、私が親子分離の時間にもう1つ意識して行ったことがあった。
あえて離れたところに座り、一人の時間を過ごすこと。
その間は読書をしたり、仕事で提案したいことを書きまとめたりしていた。
息子の為に、と、何時間も常に気を張り詰め続けることが、私の性格上出来なかったからだ。
それに、僅か数分であっても、そのように私自身の心の平穏を目的に過ごす時間は、帰宅後の家事育児の質を下げないことに非常に役立った。
幸い、1人で過ごす私を咎めたり無理に仲間に引き込もうとする保護者はいなかった。

その日その日のプログラムの過程で、私が他の子ども達と一緒に遊ぶ場面もあった。
息子はその性質上、誰にも関心を示さなかったし時には拒否すらした。
それでも、息子の名前を呼び、遊ぼうとしてくれる子や保護者ができた。

そして2024年3月某日。週2回の親子通園は最終日を迎えた。
その日私と息子はいつもの道を歩いて、いつものバスに乗って、いつもの時間に園に着いた。
普段は複数のクラスに分かれてそれぞれのプログラムをこなすのだが、最終日ということで全クラスが集められ、お別れ会が開かれた。
演目の中の代表の先生の話を聞きながら、この約四ヶ月間の色々なことが、自然と思い起こされた。
どんどん伸びてゆく息子、笑顔で走り回る子ども達、保護者の皆と喋ったこと、先生に助言を頂いたこと。
「通園を誰より頑張ったのはお子さん本人です。
しかし、それを誰より支えたのは親御さん達なん ですよ。」
そう言う先生の言葉を聞き、目から涙があふれるのを止めることができなかった。

息子の為だけを思って、週2の療育を決めた。
なのにここで楽しく幸せな時間を過ごしたのは、息子ではなく、私だった。
先生も、子ども達もその保護者も、皆、皆、大好きになっていた。
今日が終われば二度と、この子達と、その親達と、先生達と、会うことができない。
それが寂しくて、寂しくてたまらなかった。
息子が人を無視しても、癇癪を起こしても、手を振り払っても、それを受け入れてくれる人しかなかった。
ここでは、息子がいわゆる『普通の子』でないことで、『かわいそう』と言われたり、白い目で見られることが絶対になかった。
だからその可能性を恐れたり怯えたりしなくて良かった。
こんなに大勢が一堂に会しているのに、誰もが子ども達の幸せを祈り、成長を喜び、分かち合えていた。
そんな集団の場所は初めてだった。

全てのプログラムを終え、写真撮影や尽きぬお喋りを楽しむ保護者達に混ざることなく、私は楽園を後にした。
結局どの保護者とも、個人的な連絡先を交換しなかった。
ここに来たのは息子の為で、私の楽園を見つける為ではないのだから。
それに、この先も連絡を取れる関係を築いてしまうことは、その後の子ども達の情報を共有し合うことでもある。
そうすれば私はいつか必ず、こんなことを思うだろう。
『●●君はこんなこともできるようになったんだ。
■■ちゃんはあれもこれもできる。
なのにどうして。歳が一緒で、同じところに通っていたのに。』
私の性格上、そういう風に人の子と我が子を比べると分かっていた。
そんな気持ちを持って我が子を育てるのも、そんな目で子ども達を見るのも、絶対に嫌だった。

それにこの先私が『楽園』と呼べる場所を見出すとすれば、それは息子と関わりのない、私だけの場所でなければならないと強く思う。
何より、いつか親が関わらない場所で、息子自身の『楽園』を見出す為にも。

療育園に私が見出した楽園はきっと、かりそめでしかないのだろう。
それでも私にとっては真実だ。
何故なら、あの楽園で過ごした皆がこの先それぞれの道をしっかりと歩んでいくと思うことは、私の生きる力になると、分かっているから。

いいなと思ったら応援しよう!