異担侍日報に宛てて:其ノ壱「知識と知恵(智慧)」
こうやってブログを書くことはほぼ初めてになります。
日頃はTwitterで絵を描いています、百と申します。
ここでは7 MEN 侍のブログである異担侍日報侍ふ、主に矢花さんのブログに宛てて感想を書いたり思考を書き散らかしたりしてみたいと思います。
不慣れなため読みにくい点が多いかと思いますが、よろしくお願いいたします。
~~このさき(´・ω・`)ほんへ~~
今回は3回目、「知る」ということについて自分でも考えてみようと思います。
矢花さんの書いていた、知識を得たことで何故そのものが好きなのかが分析できるようになったことの話は自分も言われてみて強く共感しました。
自分は他の人の絵を見るとき、無意識で「この色使いがいい」「構図の工夫がすごい」と、なぜその絵がよく見えるのかを分析していたんです。
これは、絵描きとして上達したいと思ったから行われていることで、それこそ絵についてそこまで考えていなかった子どものころなら「きれいだ」「すてきだ」くらいにしか思えなかったはずです。
それは、「知識」が増え、「目的」ができたからだと私は考えます。
知識を得るという行為にはそれなりの労力、時間、お金がかかる場合もあります(学校や専門書など)。
なんとなく興味が出て、というケースもありますが、その場合は入り口に立つ程度です。
「目的」がないとより詳しい知識にたどり着くまで学ぶに至らないと思います。
例えば、教師になりたくて大学の教職課程をとったり、美容師を目指して専門学校で学んだり、絵がうまくなりたくてプロ絵師の絵を観察したり美術書を読んだり、etc......。
知るということにはある程度の目的と熱量が必要なんだと私は考えます。
そして、新たな知識を得ることは、学ぶ過程がしんどい時もあるけれど、視界が開けてとても楽しいものであるとも思います。
好きなものほど、深く知ることができるとより好きになれることが多いです。
例えば絵の話であれば、新しい画法を身に着けたり、仕上げ加工の方法を変えてみたり、新たな発見、知識は絵を描くことをより楽しくしてくれます。
矢花さんは「知ったかぶりだった」と己を戒めるような言葉を選んでいましたが、知らないことを認めることは難しいと同時に大事なことでもあります。
知識という土台があれば、より広い視野で物事と向き合うことができると私は考えます。
矢花さんは「知る」ということについての危うさについても触れています。
確かに、矢花さんにとっての音楽のように、私も子どものころほど素直に絵を観れなくなりました。
なんで素敵に見えるのか、どこがすごいのかをすぐ考えてしまうようになったのです。
知識と引き換えに純粋さを失った、ということができるかもしれません。
そして「知っている」ということが時に「諸刃の剣」になると矢花さんは記しています。
これについて彼のブログでは具体例は挙げられていなかったのですが、自分なりに考えてみました。
例えば、①自分に正しい知識があるからこそ、相手が望んでいないおせっかいなアドバイスをしてしまったり②知りすぎたことにより心が傷ついてしまったり、でしょうか。
①に関しては、禅宗の言葉「啐啄同時」というものを思い浮かべました。
この言葉は、卵から孵る雛が内側から鳴くことと母鳥が外側から殻をつつき助けるタイミングが一致すること、そこから教える側と学ぶ者の息が合うことを意味します。
どんなに素晴らしい知識を伝えようとしても(教えてもらおうとしても)発信する側と受け取る側の意識が通じていなければうまくいかない、ということです。
私は知っていることを人に勝手な親切で教えたくなることが多い方だと自覚しています。
しかし、相手がそれを受け取る姿勢になってくれているかどうかをあまり考えてこれなかったかもしれません。
「知っている」からこそ、相手にとってそれが有益なのか、必要なのかを見極めなければいけないと思いました。
②は矢花さんがブログに綴った続きにもつながります。
知らぬが仏という言葉があるように、余計な好奇心のせいで傷ついてしまうこともありますし、情報の取捨選択ができなければ踊らされることになります。
唐突ですが、私は「すべてを知る」ということはできないと考えています。
学問や社会情勢はもちろん、自分のことでさえ、知り尽くすことは不可能だと思っているのです。
今自分が何を考えているかはわかっても、自分の背中がどうなっているか、人にどのように思われているか等、自分の視野だけではすべてを知ることはできません。
さらに、冥王星が惑星から外されたように、正しかった知識も時には更新されます。
正しいと信じていた知識が、間違いに変わってしまうこともあるのです。
ここで大事なのが「知恵(智慧)」だと私は考えます(やっとタイトル回収)。
知恵という言葉を辞書で引くと
1 物事の道理を判断し処理していく心の働き。物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。「―を借りる」「生活の―」
2 (智慧)仏語。相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧。物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。
(goo辞書よりhttps://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%9F%A5%E6%81%B5/)
とあります。
知識は道具で、使い方、判断はその人次第です。
どこまで知るのか、信じるのか、教えるのか、その物事への自分の状況を把握し、判断する力があれば、知識はその人の強い味方になってくれると思います。
矢花さんも書いていたように、情報を精査し、見極めていくことで、成長していきたいですね!
……オチが見えなくなってきたためここで締めようと思います。
最初から最後まで筋の通った文章の書ける人はすごいですね。
でも、こうやって考えて、文字にすることで思考を整理してみてほしいというのが、矢花さんの狙いなのかもしれません。
というか書くのが遅すぎて3回目来週に消えてしまうんですよ……。
今後も時間があったらほかの回について何か書くかもしれません。
まとまりのない長文にお付き合いくださりありがとうございました。