見出し画像

おいしいものと帰る場所がある幸せ

数日前から、飲食店や食べ物にまつわる思い出がタイムラインに流れてきていて、遡っていったら、こんな素敵な企画にたどり着きました。

いくつか作品を読ませていただいて、食は、生きることに欠かせないものであり、生きることに寄り添うものなのだなあと、感じました。

締切を過ぎてしまったので、企画の参加ではないのですが、わたしも「わたしの食のレガーレ」を書かせていただこうと思います。

(何本も文章を書くことも、締切を守ることも、大変なのですね!わたしには無理でした>_<)

黒ワインさん、便乗して、ごめんなさい!おまけのおまけのおまけくらいの感覚で、読んでいただけたら嬉しいです。

以下、本文です。

1杯目

実家の最寄りは、ローカル線の小さな駅。そこから歩いてすぐのところに、そのお店はあった。

決して広いとは言えないけれど、レトロな装飾と音楽の中で、コーヒーと軽食を楽しめる、昔ながらの喫茶店だった。

父に連れられて、初めて、お店に行ったとき。わたしは、まだ小学校にも上がっていなかったので、そのお店は、もう30年以上も営業していたことになる。

お金がないくせに「本物志向」だった父は、幼いうちから「本物のおいしいもの」を食べさせてくれようとしたのだろうけど、当時のわたしは、外食ができるだけで、大はしゃぎ。そんな父の思いなどに考えが及ぶはずもなかった。

ホットケーキか、フルーツヨーグルトを食べて、紅茶を飲んだ。添えられていたシナモンスティックの香りから、4、5歳のちびっ子が、まるで大人の女性になったような、心地よさを感じたことを覚えている。

2杯目

次にお店に行ったのは、父の葬式やら何やらが落ち着いたとき。父と行ったあの日から10年以上経っていたはずだけれど、お店の雰囲気もメニューもほとんど変わっていなかった。「お父さんと一緒に来たことがあったよね」と家族で話しながら、ピザトーストを食べた。

その後、何度か、お店を訪ねたけれど、わたしは至って「普通のお客さん」だった。

わたしの病状が急激に悪化し、車椅子になるまでは。

3杯目

全身の痛みが一気にひどくなり、一歩も歩けなくなったわたしは、車椅子に乗って、母とあのお店に行った。確か、大学病院からの帰りだったと思う。

「車椅子でもいいですか?」と訊くと、マスターであるおじさんとおばさんは、わたしのために、入り口からすぐの席を空けてくれた。

多分、おじさんとおばさんと話をしたのは、その日が初めてだったと思う。

その日のランチセットだった、コンビーフとポテトのサンドイッチを食べ、アイスティーを飲みながら、わたしに合う薬や治療法がなかなか見つからないこと、大学を退学しなければいけないかもしれないこと、つらくて苦しくて、いっそ死んでしまいたいと思っていることなど、泣きながら、母と話した。今思えば、おじさんとおばさんには、わたしと母の話が聞こえていたのだろうな。

それから、病院の帰りに、時々、お店に寄るようになった。「あそこなら入店させてくれる」という安心感があったからだと思う。おじさんとおばさんは、いつも、車椅子のわたしのために、入り口の席を空けてくれた。幼い頃に亡き父と来たことや自分の病気のことなど、少しずつ、おじさんとおばさんに話すようになった。

4杯目

さらに、数年が経ち、認知行動療法やリハビリを受けたわたしは、杖をつけば、ゆっくりながら、歩けるようになった。家族に内緒で、ひとりで散歩し、クリームソーダを飲みに行ったこともあった。「お母さんに心配かけたらだめだよ」と言いながら、おじさんとおばさんは、わたしがひとりで歩いて来られたことをとても喜んでくれた。

歩けるようになったわたしは、フリーランスで仕事を始めた。新しい契約をとれた日は、嬉しくて嬉しくて、必ず、お店に報告に行った。その度に、おじさんとおばさんは「お祝い!」と言って、チーズケーキをごちそうしてくれた。

5杯目

おじさんが体調を崩し、お店をしばらく休んだことがあった。「おじさんの具合、そんなに悪いのかな」「このまま、お店やめちゃうのかな」と不安になり、わざわざ、何度も、シャッターの閉じたお店の前を通った。半年くらい経った夜、おじさんがお店を掃除しているところを見かけた。心配と嬉しさで、わたしは、ぽろぽろ泣いていた。おじさんは「なーんだよ、泣くなよー」と抱きしめてくれた。

6杯目

お店が再開されてすぐの頃、わたしは、結婚を決めた。もちろん、おじさんとおばさんに報告に行った。目を潤ませて、とても喜んでくれた。そして、手紙とお祝いまで渡してくれた。正直、驚いた。おじさんとおばさんに子どもがいなかったからか、わたしは、いつの間にか「特別なお客さん」になっていたみたいだった。もちろん、わたしにとっても、おじさんとおばさんのお店は「特別な場所」だった。

7杯目

帰省をする度に、夫とモーニングを食べに行った。おじさんとおばさんは「優しそうな旦那さんでよかったね」とか「得意料理は何なの?」とか、いろいろ話しかけてくれた。そして、わたしがお店を出るときには、必ず「無理しちゃだめだからね」と声をかけてくれた。

産後、上の子を連れて行ったときは、とても可愛がってくれた。その頃、上の子は『しろくまちゃんのほっとけーき』にどハマりしていて、お店の本物のホットケーキに大喜びしていた。おじさんとおばさんは、子どもが残してしまったホットケーキを特別にお持ち帰りさせてくれた。メイプルシロップの瓶まで添えて。

8杯目

今年の春、おじさんとおばさんがお店を閉めるそうだと母から聞いた。下の子を産んだばかりだったわたしは、お店の最後の日に駆けつけることができなかった。

それでも、おじさんとおばさんに、どうしてもお礼が言いたくて、わたしは手紙を書いた。

おじさんとおばさんのお店は、亡き父との思い出の場所だっただけでなく、わたしの人生の一番つらく苦しいときも、一番幸せなときも、あたたかく見守ってもらった、わたしの「帰る場所」になっていたこと。

コーヒーが苦手なわたしは、夏はクリームソーダを、冬はホットチョコレートを注文していて、コーヒー専門店なのに、とても失礼をしていたのではないかと、今さら後悔していること。

そんなようなことをダラダラ長く書いた手紙だった。

9杯目

わたしが手紙を送ってから、しばらくして、母が閉店間際のお店を訪ねたとき、おじさんとおばさんは、わたしの送った手紙を母に見せたらしい。おじさんもおばさんも、その手紙を「宝物だよ」と笑って、話してくれたそうだ。

おじさんとおばさんがお店を閉めたのは、歳をとってきてお店を続けるのが難しくなったことと、飲食店の完全禁煙(分煙)に腹が立ったからだと、閉店した後になって、母から聞いた。

昔ながらの喫茶店という感じのあのお店は、確かに、分煙なんかしていなかった。

だけど、大きなおなかを抱えていたときも、上の子を連れて行ったときも、タバコを吸っているお客さんの中に、わたしに文句を言うひとはひとりもいなかった。むしろ、わたしや子どものことを気遣って、奥の席に移動してくれたり、入り口からすぐの席を譲ってくれたりした。

ヘビースモーカーだった父のせいで、わたしは、喫煙者に一方的な偏見を持っていたけれど、現実世界のひとたちはそうでもなかった。おじさんとおばさんのお店のお客さんだもの、悪いひとなんていないに決まっている。

10杯目

小さな駅のそばにそっと開かれていた、昔ながらの喫茶店。

わたしは、そのお店のおじさんとおばさんから「おいしいものと『帰る場所』がある幸せ」を教えてもらった。


おじさん、おばさん、おいしいものと素敵な時間をありがとうございました。

そして、長い間、お疲れ様でした。

どうか、これからは、ゆっくりと、ご自分のために時間を使ってください。