世界にはいくつかの主要宗教があり、それぞれの神が真の神であると言う。どの神が唯一の真の神であるかを実際にどのように確認するのか。
神の御言葉による答え:
神が万物を造ったのだから、全ての被造物が神の支配の下に帰し、神の権威の下に従うようにする。また神は万物を采配し、万事が神の手の中にあるようにする。動物、植物、人類、山や川、湖を含む、あらゆる被造物が神の権威の下に帰さなくてはならない。天の万物と地上の万物が神の権威の下に帰さねばならない。他に選択肢はなく、皆が神の指揮に従わなければならない。これは神によって定められたことであり、神の権威でもある。神はすべてをつかさどっていて、万物を整えて秩序立て、神の心に沿って、万物をその種類に従ってそれぞれの場所に配置した。どのような大きなものでも、神に勝るものは存在せず、万物は神の造った人類に仕え、あえて神に逆らったり神に何か要求したりするものは一つもない。
『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より
世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって、人々の存在は宗教の代表あるいは指導者に導かれているわけではない。要するに、人類は特定の宗教の代表や指導者ではなく、人類全体が、天地を造り、万物を造り、そして人類を造った創造主に導かれているということであり、またこれは事実である。世界にはいくつかの主要な宗教があるが、その大きさに関係なく、それらの全てが創造主の支配の下に存在しているのであって、いかなる宗教もこの支配の範囲を超えることはできない。人類の発展、社会の進化、そして自然科学の発達、これらはそれぞれ創造主の計画から切り離すことはできないし、この働きは特定の宗教の代表にできるものではない。宗教を代表する人というのは、特定の宗教組織の指導者というだけで、神、つまり天地と万物の創造主の代理を務めることはできない。宗教の代表は、その宗教全体の内において人々を率いることはできても、天下のあらゆる被造物を統率することはできないし、これは世界中で認められている事実である。宗教の代表は単なる指導者であり、神(創造主)と対等の立場にはなれない。万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。神だけが万物の中で最も高い地位にいるのであり、すべての被造物の中の最高の支配者でも神の支配の下に帰らなければならない。人の地位がいくら高くても、人類を適切な終着点へと導くことはできないし、誰も万物をその種類に応じて分類することはできない。ヤーウェ自身が人類を造り、人々をそれぞれその種類に分類したのだから、終わりの時にもやはり神は自身でその働きを行い、万物をその種類に従い分類するが、これは全て神以外にはできないことである。初めのときから今まで、三つの段階の働きは全て神自身が行ったのであり、それは唯一の神がしたことである。三つの段階の働きの事実は、人類全体に対する神の統率力の事実であり、誰も否定できない事実である。三つの段階の働きの終わりには、万物が種類に応じて分別されて神の支配の下に帰り、そしてそこには全宇宙を通してただ唯一の神だけが存在し、その他の宗教は存在しなくなる。世界を造ることができない者は、世界を終わらせることもできないが、世界を創造した神は、必ず終わらせることもできる。だから、もし誰かが一つの時代を終わらせることができず、単に人がその心を養うのを手助けするだけなら、その人は断じて神ではないし、断じて人類の主でもない。そのような者にこのような偉大な働きは可能でなく、このような偉大な働きは唯一の存在によってのみ可能である。そしてこのような働きができない者はみなきっと神以外の敵である。もしかれらが邪教信者であるなら、神とは相いれないし、そして神と相いれないなら、彼らは神に敵対する者なのである。すべての働きはこの唯一の真の神が為すものであり、全宇宙がこの真の神の支配下にあるのだ。神の働く場所がイスラエルでも中国でも、またその働きが聖霊によるものでも肉体によるものでも、全ては神自らによって行われるもので、他の誰にもできないことである。神が全人類の神だからこそ、神はどんな条件にも制限されず自由に働き、これはすべてのビジョンの中で最大のものである。
『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より
いのちの道は、誰でも持てるものではなく、誰にでも簡単に得られるものでもない。なぜなら、いのちは神のみに由来しているからだ。それはすなわち、神自身のみがいのちの本質を持っており、神自身なくしていのちの道は存在せず、神のみが、いのちと永遠に流れつづけるいのちの生ける泉の源であることを意味する。神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。神のいのちは、天や地が激変する間も永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下に服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。
『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より
神の働きは神自身が行なう。神の働きを始動させるのは神で、それを終わらせるのも神である。働きを計画し管理するのも神で、それ以上に、働きを成就するのは神である。それは聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営(救い)に関連する全てのことは神の手で行なわれる。神は六千年の経営(救いの)計画の支配者で、誰も神の代わりに働くことはできず、神の働きを終わらせることはできない。というのは、すべてを支配するのは神だからである。神は世界を創造し、神は全世界が神の光の中に生きるよう導き、神の計画すべてが成就するよう全時代を終わらせるであろう。
『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より
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