凸凹をパンチや傷ではなくみれたなら
それぞれの人には、それぞれの性質がある。
よく、
それはパズルのピースに例えられる。
凸が長所で
凹が短所 というような。
突出して秀でているところが長所で
欠陥部分が短所 という具合だ。
しかし、先程、パズルの凸部がパンチの拳に見えた。
パンチによって凹むとなりのピース…
というような。
人は、パズルのピースのように凸凹だ。
ある視点から見られると長所と言われた凸は
ある側面から見られると拳にもなる。
誰かの凹(欠陥)を埋めていた凸が、
他の誰かの隣に並んだ時、
パンチ凸になり、隣の誰かは凹み、傷つくのだ。
凸は誰かの凹みを補うものにもなり、
誰かの凹みを作ったかのように思われる凸にもなる。
しかし、
凹んだように思われているこの凹、実は、
元からこのような凹みだったのだ。
パンチ凸によって凹んだ凹ではないのだ。
凸は単に凸であり、パンチや秀でた長所というのは、そこで起きた解釈なのだ。
凹も欠陥や傷と解釈が起きるかもしれないが
単に凹は凹だ。
例えば、凹を傷ではなく、パンチ凸を包む凹と見れたなら
その凸凹は、お互いを補足し合う、
単なる「形」となる。
人はそれぞれ多数の凸凹で形取られている。
その凸凹にどんな解釈をつけるかは自由に起こる。
まあ、単「なる凸凹という形だ」というのも解釈だが…。