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サウナで「ととのう・整う」感覚の言語化と、言葉で定義されない温浴文化の多層的価値
近年の日本のサウナ文化において「ととのう」という表現は特別な意味を持つ言葉として定着しています。
サウナ用語「ととのう」の語源
この言葉の起源は、現在のサウナブームがまだ想像もできなかった2009年頃にまで遡ります。プロサウナーとして知られる濡れ頭巾ちゃん氏が、サウナ仲間と共に北海道の『白銀荘』でサウナを楽しんだ際に、サウナ後の快感を表現する言葉がないことに気づき「整った」という言葉を提案しました。この言葉は仲間内で受け入れられ、その後、彼のTwitterやブログを通じて広まりました。
当初、濡れ頭巾ちゃん氏は自身のブログでこの状態を「整う」と漢字で表現していましたが、この表現に注目したのが、後の『サ道』の作者となるタナカカツキ氏でした。2013年両者のウェブ対談が実現し「整う」という表現が初めて一般メディアに登場したといいます。また、漫画『サ道』でこの言葉を作品に取り入れたことで、さらに多くの人々に知られるようになりました。タナカ氏は、サウナの快感を「ととのったー」という言葉で表現し、これがサウナブームの一因ともなっています。この概念は視覚的な表現を獲得しさらにドラマ化によって広く認知されることとなりました。
現在では「整う」ではなく「ととのう」とひらがなで表記されることが一般的となっているようです。これには、「整う」と「調う」という二つの漢字が持つ意味を包括的に表現しようとする意図が込められているとされています。
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一般的な「ととのう」概念とその解釈
サウナと水風呂を交互に利用し、その後に外気浴を行うことで得られる特有の感覚を指します。このプロセスを繰り返すことで、心身がリフレッシュされ、極楽にいるような恍惚感、リラックスしていながら頭が冴えている状態を体験することができます。この状態に至るプロセスは、科学的にも興味深い変化をもたらします。
サウナでととのうプロセス
サウナ: 高温のサウナに入ることで体が温まり、血流が促進されます。この時交感神経が刺激され、心拍数が上昇します。
水風呂: サウナから出た後、冷たい水風呂に入ることで体温が急激に下がります。この温度変化により交感神経から副交感神経に切り替わり、リラックスした状態になります。
外気浴: 水風呂から出た後、外気に触れることでさらにリラックスし、心身のバランスが整います。この一連の流れを数回繰り返すことでより深いリフレッシュ感を得ることができます
確かに、サウナと水風呂を行き来する中で得られるトランス状態とその後の爽快感は、紛れもない価値を持っています。多くの人々が、この独特の恍惚感を求めてサウナを訪れるようになりました。
温浴文化における「ととのう」の新たな解釈を求めて
私もサウナにハマり、数多の日本全国のサウナや温浴施設に通い続けるうちに、ある気づきが生まれてきました。それは、必ずしも温冷交代浴による身体的な刺激だけが私たちを「ととのう」状態へと導いているわけではないのではないか、という思いです。むしろ、その場所に身を置き、自分の内面を見つめながら過ごす時間の中で、より深い、精神的な充足感を得ているのかもしれません。
例えば、古い銭湯を訪れた時のことを思い出してみましょう。
そこにはサウナも水風呂もないかもしれません。しかし、古い銭湯を訪れると、そこには新しい施設では決して味わえない何かがあります。
壁に描かれた富士山のペンキ絵あるいは古びたタイル絵、年月を重ねた漢字の看板、そこかしこに残る昭和の面影。浴場内に響く湯の音、タイルの風合い、隅々まで清掃の行き届いた脱衣場——。これらの些細な発見に心を寄せるとき、確かに私の心はととのっていくのです。
それは、身体的な快感とは異なる次元での「ととのう」なのかもしれません。その場所への深い愛着や、時間の流れに対する感謝の念といった、より精神的な体験として捉えることができるのではないでしょうか。
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温浴施設が持つ固有の価値
近年のサウナブームの中で、多くの新しい施設が誕生しています。
洗練されたデザイン、心地よい照明、快適な設備、いわゆる「ととのい」やすさを追求した設備。現代のニーズに応える工夫が随所に施されています。それぞれの施設がより良い体験を追求する中で、おのずと似たような空間づくりになっていくのも、また時代の流れなのかもしれません。
古い銭湯には、建築としての価値、日本の入浴文化を伝える芸術品としての価値、そして何より、数十年の時を刻んだ唯一無二の地域の文化遺産としての物語があります。それらは、ただの「レトロ感」という言葉では片付けられない重みを持っています。確かに、ゆったりと寛げるインフィニティチェアはなく、休憩スペースもないかもしれません。しかしそういった現代的な快適さの不足も含めて、歴史ある銭湯ならではの味わいです。それは先ほどの一般的な「ととのう」という物差しでは測れない価値です。
新旧の温浴施設の共存がもたらす豊かさと、その危機
このことは決して新しい施設の価値を否定するものではありません。時代が求める「ととのう」を追求した現代の施設には現代ならではの魅力があります。それぞれの時代に、それぞれの価値があるのです。だからこそ、新しいものと歴史あるものが共存する今の状況はとても貴重なものに思えます。
しかし、その共存は決して安泰ではありません。この数年で銭湯の数は半減し、設備の老朽化という課題を抱えながら今なお減少し続けています。確かに、経済的な観点からすれば、古い設備を修繕し続けるよりも新しい施設を建てる方が合理的なのかもしれません。集客の面でも新しい施設の方が優位にあることは否めません。
それでも、私たちは歴史ある銭湯を守っていく方法を考えていかなければなりません。なぜなら、一度失われた文化遺産は二度と取り戻すことができないからです。
「ととのう」の本質を見つめ直して
結局のところ、私たちに必要なのは、「ととのう・ととのわない」という二元論から離れることなのかもしれません。
歴史ある銭湯でしか味わえない時間があり、新しい施設でしか体験できない感覚があります。それらは決して相反するものではなく、どちらも私たちの温浴文化を豊かにする大切な要素なのです。
「ととのう」を追い求めることも素晴らしいことです。しかし、時にはその言葉から少しだけ距離を置いて、ただ浴場とそこに流れる時間の中に身を置いてみませんか。すると思いがけない気づきが訪れます。浴場内の湯が落ちる音に耳を澄ませ、タイルの一つ一つに目を向け、日々の清掃の跡に気付くようになります。
そんな些細な発見が重なり、やがて施設への深い愛着となって込み上げてきます。すると自然とシャワーの水をこまめに止めたり、備品を丁寧に扱ったりする気持ちが生まれます。他の利用者への思いやりも、おのずと生まれてきます。時には設備の古さや不便さに気付くこともあるでしょう。でもそんな完璧ではない部分も含めて、今この瞬間が「最高」だと感じられる——それこそが本当の意味での「ととのう」なのかもしれません。
そして、そうした利用者の愛情と思いやりもまた浴場を形成する重要な要素だということに気がつくのです。
もしかすると『ととのう』ことの究極の姿とは、このように施設への愛しさが満ち、他者を慮る心が自然と湧き上がってくる状態なのかもしれません。それは単なる身体的な快感や心地よさを超えた、より深い充足感をもたらしてくれるのです。
私たちは今、「ととのう」という言葉を通じて、温浴文化の本質的な価値を見出そうとしています。それは、ただ身体的な快感を追求することではなく、その場所が持つ固有の価値を認め、守り、育んでいくことなのかもしれません。そしてそのような深い愛着を持って施設と向き合うときこそ、本当の意味で私たちはととのっているのではないでしょうか。
言葉を超えて広がる温浴文化の未来へ
「ととのう」という言葉は、確かに私たちの温浴文化に新しい扉を開きました。しかしその扉の先には、言葉では定義しきれない多層的な価値が広がっていました。それは歴史ある銭湯の佇まいが醸し出す独特の雰囲気であり、新しい施設が提供する洗練された体験であり、そしてそれぞれの場所が持つ唯一無二の時間の流れなのです。
新しい施設も、歴史ある銭湯も、それぞれが持つ独自の魅力と物語があります。その両方が存在する今この時代だからこそ、私たちは温浴文化の真の豊かさに気付くことができるのです。この気付きを大切に育て、次の世代へと伝えていくこと——それこそが私たちに課された大切な使命であり、豊かな温浴文化を未来へと継承していくために、今、私たちが守るべきことなのかもしれません。