【システム開発昔話】システム爺さんのこれまで
昔々、志望校ではない、ある国立大学の機械工学科に入った学生がいたそうな。。。
第一志望は東工大でしかも、機械系ではなく、電子系!
既に駿台午前部も合格していたので、浪人しようか悩んでいたけど、高校や両親から「ともかく入学しろ!!!!」と言われて。。。
入学の前年には国産8ビットPCの草分けのベーシックマスターやMZ-80などが発売され、入学した頃にはPC-8001など、歴史を作ったPCが出てきました。
私の母校は学科に関係なくほぼ8割の学生が卒業までにPCを所有するという工学系国立大学でも異色な存在でした。
・・・とここまで言えば、大学名はバレてしまいますね。。
しかし、電子系、情報系の学科は授業で「Pascal」などの構造化言語で授業していましたが、機械系は古風な「Fortran」!
しかも、電算センターを使える時間も授業の時のみ。あとは学科所有のミニコン?をパンチカードで使うという、まるで石器時代のようでした。
結局、自前のPCで自分で勉強するしかなかったです。
そんなこんなであまり優秀な学生ではなかった私は大学院にも進学せずに某プリンタメーカーに就職。
この入社前には「コンピュータもわかる機械屋に期待する」なんて言われたけど、結局、機械設計のど真ん中に配属。
自分で機械設計のセンスがない自覚があったけど、最初に設計したそこそこの装置を見て部長から「機能はいいだけど、見た目が!??」と遠慮がちに言われて。。。
生産ラインや製造装置の設計部署だったので、工機工場や外注の職人さんともなかなか上手くコミュケーションも取れず。。。
それで入社2年目には上司と制御系の主任に交渉して、勤務時間後に会社のPCを使わせてもらい、独学で「C言語」を習得。
当時はC言語に限らず、書籍は英語、ドイツ語、ロシア語ばかりで、確か最初に翻訳されたのが「プログラミング言語C」だったと思います。
その後、秀和さんが技術書の翻訳本を大量に販売して出回るようになりましたが、誤訳が多くて、原書と一緒に読まないと使いものにならないものもありました。
後年、秀和の創業者の方をお会いした時にお世話になったと伝えましたが「当時は100%学生が翻訳をしていた」と言ってました。
そのうち事業所の中では認知される存在になり、社内有志の「C言語勉強会」の講師をするように。最後は念願の制御系システムの部署に転属に。
自社のハンドヘルドコンピュータHC-20を使ったスカラ型ロボットのプログラミングシステム(BasicとCを合体させたようなインタープリタ言語)などを開発しました。
当時の開発環境は確か初代?PC9801にカノープスのボードを入れて、CP/M-80上でCコンパイラを動かしていたと思います。
10000行くらいのコードを昼食前にコンパイルして、食事後にまだ終わっていない!しかも、終わっても大量のエラーメッセージが!
・・なんて、牧歌的な時代でした。
そんなこんなで好きな仕事を毎日できて良かったはずですが、精神的な過労や過度なプレッシャーから精神を病んでしまいました。
2ヶ月ほどは朝、会社に出勤して、そのまま医務室で休み、タクシーで松本市内の精神科へ行く。帰社して、薬を飲むと体が動かなくなるので、そのまま医務室で寝て社食を食べて帰宅するということをしていました。
まあ、当時は社内で「胃潰瘍、十二指腸潰瘍、精神を病んで一人前」などと言われていましたので、それほど特別な存在ではなかったと思います。
つづく