【システム開発昔話】システム爺さんのこれまで その2
1話からの続き
折角、念願のシステム開発三昧?の部署に異動したのに精神を病んで2ヶ月ほどまともに仕事ができませんでした。
ある日、工場の主任が私の気分転換のためにある農業共同体のムラでの農作業や鶏の世話に誘ってくれました。
実はそのムラは後年、大問題になって世間を騒がせ、村上春樹の1Q84にオウムと並んでモデルになった共同体です。
そのムラで週末に泊まり込みで農作業をしていたら、1ヶ月ほどで精神科の薬も不要なほどに回復して、通常の業務ができるまでになりました。
そこまではめでたしめでたしで良いのですが、実は!そこの活動にのめり込み、1年ほどで会社を辞めて、共同体に参画。
当時は社内でも大問題になったらしく、退職届のハンコを取締役まで自分で直接、貰いに行くことに。。。
農業共同体に参画して、最初に数ヶ月は養鶏、養豚、緑餌(牧草)などをしていましたが、その後、営業部門や配送部門、経理などを経て、システム開発部に。
システム開発部といっても最初は営業拠点責任者の上司が兼務で管理して、実働は私ひとりでした。
最初に手掛けたのは全国40か所以上の営業拠点で生産物の受注、発注、配送のシステム化でした。
そこで出会ったのは「MUMPS」という非常に優れたデータベースのプログラミングシステムでした。
多分、MUMPSで検索をすると「おたふく風邪」と出てくると思いますが、現在でも特に大きな医療機関で使われています。
20年以上前に「M言語」としてJIS規格にもなっていますが、直接、M言語でコーディングができる人間は日本で1000人にも満たない超マイナー言語です。
M言語はデータ形式や文字数などのデータ定義をする必要がなく、実稼働しているシステムでも途中でデータの構造を変えたり、修正することが容易なので、病院のシステムなどを医者が自分で開発することもできました。
日本ダイナシステムは大昔にMUMPSの学会やシステム開発でお世話になった嶋社長の会社です。
いまでもMUMPSの後継のCache'(キャシェー)の販売、開発をしているはずです。
当時のM言語の難点はUIがほとんどテレタイプ時代から進歩をしてなくて、それぞれのユーザーの工夫で対応をしなければなりませんでした。
現在、データベースは様々なシステムと接続できるようになったので、UIは外部のシステムに依存して良くなったと思います。
しかし、それと引き換えに初期のMUMPSのような手軽さはなくなりました。
つづく