ヴァサラ幕間記21
ラショウとヒト
人肉というのは特別な物だった。
脂身が多い肉は柔らかく、口に入れると甘く崩れる。そこに血液が絡むのが程よい塩味で、血の香りは食欲も誘った。それはもう、動物の肉とは全然別の食べ物だ。この味を知ると忘れられなくなる。そんな代物だった。
人間になると決めた日から、この先も食いたくなくなることはないだろうと思っているそれを、死ぬまで捨てることをラショウは決心した。
それは嗜好品を断つようなものだった。
戦場でふと気を抜いた時、そこに転がっている死体の傷が大きく生々しいと、ついフラリと食ってしまいそうになる。何十年も食わなくて済んでいるのは気持ちを逸らす技術を身につけたからに過ぎない。今だってあの味を、いつでも舌先に思い出すことができる。
大きな事件や人生の哲学的な問題、生死に関わることなんかよりも、この食に関するくだらなくて通俗的な問題は辛い。
だがこれは、一度でも人を食べてしまった自分が悪いのだ。
最近、人肉を食べたいという欲望が抑えられなくなることがある。
ヴァサラが倒れたことが心の端をジリジリと焼くようで、四六時中落ち着かない。加えてカリスマがいない軍をまとめる責任は重かった。
十二神将会議でも、パンテラが1番嫌であろう言葉を知っていてわざと言ったところがある。あのイブキを本気で怒らせることになったのだから最低だった。
ピリピリしているのが自分でもわかる。それを思い知れば思い知るほど、人は食べないというタガが外れそうになる。
会議の決議について副隊長二人に報告している時、タジョウマルに比べてツバキの肌は柔らかそうだな、と頭を過った。
途端に、薄い肌をプチりと噛み破った時に口中に溢れる血の味がよみがえる。その味を何とか掻き消しこれからの予定は伝えたが、波が重なるように襲ってくる欲望は収まりそうになかった。
周りに人がいるのはヤバい。
足早に、人気のない一番隊兵舎の裏に回った。
ヒ ト ガ ク イ タ イ
内側を引っ掻き荒らす気持ちに耐えきれず、ラショウは自分の右腕に噛みついた。ジワリと自分の血の味と香りが広がった瞬間、嘔吐感が喉まで迫り上がる。だが胃の内容物は消化された後だったらしい。くぐもった嗚咽と共に胃液が喉を焼いただけで、出てくるものは何もなかった。
人肉を食べたい気持ちは収まるのはいいが、あまり頻繁だと食べたもののほとんどを戻すハメになる。今は体力を落としている場合ではないのだ。
あいつらも自分たちが食われそうになってるとはまさか思わないだろうな。
副隊長二人を思うと複雑な気分になり、壁に寄りかかると、何とはなしに遠くの空に目をやった。
「あ、ラショ兄!」
特徴のある素っ頓狂な声が背後から響く。
「やっぱりラショ兄はカッコいいなあ!」
と言うと、持っていたものを地面に下ろし、同じ格好で壁に寄りかかり空を見た。
そういう気もなかったのに自分のマネをされると恥ずかしいものがある。
「何の用だ」
言って壁から身を離すと、
「そうそう!」と、持って来た袋から瓶を出した。
小ぶりのキュウリがいっぱいに詰まっているそれはピクルスのようだ。
「副隊長達が、最近ラショウさん疲れてるみたいだって言ってたからな!疲れた時は酢だ!」
非常に今食べて欲しそうな目で見てくるので、そんな気分でもないが一つ摘んでみる。
瞬間、酷い酸味に頭が痛くなった。
「ヒルヒル、これ何に漬けた」
こめかみを抑えながら聞くと
「もちろん酢だ!」
と自信満々に言っている。
案の定、調味料は酢だけらしい。これが料理だとしたら、おそらくピクルスという物ではないはずだ。
だが、おかげでラショウは気づいた。
ラショウの部屋は、備え付けのベットと書き物机、洋服ダンス以外には敷物の一枚もないミニマルな部屋だが、唯一、冷蔵庫だけは立派なものがある。その部屋のインテリアが異様なので、中に何が入っているのかと隊員達を怯えさせているが、中には自家製のピクルスと酒くらいしか入っていない。
ほぼ酒のつまみにしか使っていないが、今食べてみると、ピクルスの強制的な酸味は人肉の味を忘れさせてくれるようだ。
「ヒルヒル。これもらうぞ」
まさかひと瓶全部持って行くとは思っていなかったらしいヒルヒルが
「…へっ⁉︎」と驚いた顔をしている。
野菜であろうと、腹に何も残らないよりはずっとマシだ。
気づかせてくれた礼の代わりに何か言葉をかけようと思った時、タジョウマルの言葉を思い出した。
〝任務に置いてったヒルヒルが、なかなか渋い活躍したみたいっすよ。褒めてやりましょうよッ!あいつ!喜びますよッ!〟
「…俺たちがいない間、カムイ軍の攻勢をよく防いだ。良くやった」
その程度の一言で歓喜の声を上げて飛び上がっているヒルヒルに、マスクの下でちょっと笑うと、ラショウはその場を後にした。
もちろんヒルヒルは、ラショウに褒められたことをジンとルトにすぐ自慢しに行った。その際、「ラショ兄は俺のピクルスの美味さに感動して泣き、全て持って帰った」と付け加えたので、ジンとルトはヒルヒルのピクルスもどきを食べてみた。
その結果、二人の中で、ラショウの味覚への信頼だけは大いに損なわれたのは言うまでもない。
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