花調酔之奏(はなしらべよいのかなで)〜花酔譚
2 アサヒとカナデ②
ハナヨイが気楽に過ごせる場所はもう一つあった。仕事で街に来ると必ず舞台を見に来てくれる客の常宿だ。客というよりはパトロンと言った方が近く、かなりの額のおひねりをくれたり、高くつきがちな装束を寄附してくれたりもする。
男が泊まるのは城下町にある1番良い旅館で、いくつかある離れの一軒を借りるのが常だった。離れはそれぞれ塀で囲まれた庭があり、座敷とベッドルームに加え半地下の風呂もある。男がいる時にはここに呼ばれるが、求めに応じる以外の時間は気ままに過ごすことができた。
今日の男の求めは衣装合わせだ。座敷に大きな鏡が持ち込まれ、辺りには鮮やかな着物や帯が散乱している。男がお得意さんを招いて大きな紅葉狩りをするということで、その接待用の衣装を選んでいるからだった。
「旦那さんよ。この装束は俺に似合ってんのかい?」
着物の下にしっかり肌襦袢を着せられ、ご丁寧に刀までも差した姿が鏡に映っている。髪を結い上げられたのを見るともはや自分ではないようで、これが良いのか悪いのか全く分からない。
「良く似合ってるよ」
若い旦那は声を上げて笑った。
「やっぱり刀はいるね。若衆は若衆の良さがあるから、性別が曖昧になると勿体無い」
ルミジナと呼ばれるこの男は品よく整った顔を持っていて、白シャツ青セーター、ベージュのチノパンといった格好は、一見したところ医者や教師のようだ。だが実は富豪の旧貴族で、先祖代々、役者や芸術家の支援をして来た家柄らしい。そのせいか、今時あまり使う者もいない、「舞台子」や「若衆」といった言葉を良く使った。
「接待も若衆の伝統的な仕事だからね。でもまあ花を添えるのが目的だから、綺麗な格好をしてそこにいれば大丈夫だよ」
「せいぜい愛想良く座っとくよ」
答えたハナヨイは、ふとルミジナに言った。
「紅葉狩りにゃ誰が出席するんだよ」
「君と同じような若衆や女優、若い芸術家なんかも来るけど?」
「それじゃねぇや。接待ってんならお偉いさんが来るんだろ?そいつらだよ」
ああ、とルミジナは気づいた。偉い人を接待するなら名前を知っておいた方が良いということか。
「ただ黙って僕の近くにいるだけでもいいんだけどね」
言いながらも、ハナヨイの着付けをしていた青年に印刷物を持って来させる。
「顧客名簿を見せるわけにはいかないから、口頭で大丈夫かな」
「構わねぇよ。読み上げてくれ」
髪を解きながらハナヨイは答えた。着物を着替えつつ、ルミジナの声が名前を辿ってゆくのを聞く。
「このくらいかな、今呼ぼうと思ってるのは」
数十名の名前を読み終わったルミジナが言うと、
「ありがとよ。ちゃんと覚えたぜ」
着替え終わったハナヨイは笑った。
「当日、顔教えろよ。あんたにゃ世話になってんだ。迷惑にならねぇ程度の働きはするからよ」
ハナヨイは耳が良いだけでなく、一度聞きいたことは全部覚えるようなのだ。
「接待前日は舞台の後ここに来たらいいんだな?」
ルミジナに軽く予定を確認すると、「おっと、もうこんな時間か」と旋風のように出て行った。
芝居小屋に戻った途端、ハナヨイに数人の子どもたちがまとわりつく。
「よお、カナデ!今日の演目は何だ?」
ハナヨイを倒す勢いでタックルをかました少年が表情を輝かせて聞いてくる。
花酔というのは芸名だ。本名は奏丸というので、一座の皆はハナヨイのことを本名でカナデと呼んだ。
「今日の演目は夜叉姫だ」
父の仇を討つために貴族の姫が鬼になり、退治に来た武将と戦う筋書きだ。衣装替えや乱舞のシーンが派手な神楽舞で、古典的な人気作品だった。
「私あれ大好きよ。服がパッてなってテープがバッてなるのが綺麗」
子どもをまとわりつかせながら楽屋に行くと、そこの布団に寝かされていた少女が言った。
「よおミオ。ちょっとは元気になったかい」
言いながらハナヨイは枕元に座った。一座の子どもが順番にかかった風邪だが、最後に感染ったミオの症状が1番重く長引いている。舞台が好きなことにかけては並ぶ者がないミオだが、ここしばらく舞台を見ることができていなかった。
「もう治った。今日は絶対にカナデの夜叉姫を見る!」
張り切って言っているが、額を触ってみると少し熱い。
「まだ熱があんじゃねぇか。こりゃもうちょっと寝てなきゃダメだな」
ハナヨイの言葉に、ミオの目がウルっと揺れた。
日中、一座の子どもは寺子屋へ行き、大人は仕事をしに出かけている。残る大人もこの芝居小屋の仕事をしているので、ミオは一日中、1人で楽屋の隅に寝かされていた。一座では病気の子どもは皆そうなので、そんな時ハナヨイは、いつもより早く芝居小屋に帰って来ることにしている。
「泣くな泣くな。良いものやるからよ」
ミオの頭をクシャっと撫でると、道中買ってきたたくさんの駄菓子を両袂から振り出した。それを見て、向こうでゴロゴロしていた男子2人もすかさずやって来る。
「目敏ぇなあ」
その速さには、思わずハナヨイも声を上げて笑ってしまう。
「焦らなくても菓子はたっぷりあるぜ」
駄菓子は床に山を作っていた。取り合う子どもたちを叱りつけながら菓子を分けたり、芝居のセリフを言い合って遊んだりしていると、結構な時間が経ってしまったらしい。
「はいはい、お前たち。カナデは準備があるんだよ。舞台が見たけりゃさっさと宿題だ」
言いながら、一座のまとめ役でありミオの母親でもあるハツネがやって来た。
ハツネは子どもたちをちゃぶ台に追い払い、ハナヨイを鏡の前に促す。鏡台にかかる埃除けの布を上げながら、もう一方の手で床に重ねてある台本を取った。
「どうする?一応、確認しとくかい?」
「言い回し変えようと思ってるトコの繋がりだけ見るよ」
といつもの調子で台本を受け取ったハナヨイだったが、ページを繰って手を止めた。
…やっぱり今日も見えねぇか。
横線で分けられた、セリフの上部の空間。そこにある小さい注意書きの字が、いつからか見えなくなった。
多分その時期が来たんだよな。
だが雑念は本番に邪魔になる。頭から追い払い化粧に集中した。
ガラが悪ぃこったなぁ…。
舞台を見に来たアサヒが、客席を一瞥して持った第一の感想はそれだ。
思ったより席は埋まっていた。だが、女連れ男連れ、酔っ払いや眠り込んでいる人間と、ほとんどは舞台を見るために来ている客ではない。席を選んでいる内に前から二列目まで来てしまっていたアサヒだが、最前列に並んで座っている男の子の斜め後ろに、ちょうど良い場所を見つけた。
しばらくすると、舞台の端に置いてある、めくり台の紙が一枚めくられた。最初の演目は奇術らしい。出てきた男性は結構な歳のようだが姿勢良く矍鑠としており、慣れた進行でいくつかの手品を披露する。続けて曲ごま、アクロバットと演目が進み、演芸を初めて見るアサヒは予想以上に楽しめていた。この夜中にこれだけのものを見られるのは贅沢だと思うのだが、拍手はまばらで、わっと上がる歓声は最前列の子どもたちのものばかりだ。1時間ほどで第一部が終わった時には観客のほとんどは撃沈していて、起きているのは数人だけだった。
第二部が始まる前のこの休憩時間の終わり頃、表でもぎりをしていた女性が入って来た。衣紋を大胆に抜いた色っぽい女性は、子どもたちの隣に座る直前、品定めをするようにアサヒをチラリと見た。
第二部に出るハナヨイは、舞台袖で小道具の仕込みをするついでに客席を確認した。ほとんどが寝ている中、ルミジナとその連れらしき女性、常連客、その他数人だけが起きている。毎晩大体こんな感じだ。
最前列に子ども達とハツネがいるなと思った時、その背後にハナヨイは見つけた。
…おっさん来てんじゃねぇか。
へえ、と思わず顔が綻んだ。そして少し吹き出してしまう。
浮いてんなぁ、アサヒ。
夜中という時間帯に観客が醸し出す空気は気だるく爛れていた。その中で昼の雰囲気を纏うアサヒは、芝居小屋というこのハコ自体に明らかに不似合いだ。
ホント、今までこんなとこ来たことねぇんだろうな。
だがわざわざこの夜中、不慣れな場所に来てくれたことが素直に嬉しい。
そんじゃまあ、今日はあんたに向かって演じてやるよ。
出番を示す笛太鼓の音が鳴る。
煙幕が焚かれ出した中央出はけで最初の構えを取ると、目の前を覆う幕がパッと半分に割れた。
幕が真ん中から巻き上がると、溢れる白い煙の中に女性が現れる。金襴緞子の打ち掛けを引き、赤い袴を穿く夜叉姫という名らしいこの女性は、手下の報告を聞きながら舞台前方に進んで来る。それを見ながら、アサヒは、ハナヨイはいつ出るのだろうと待っていた。
1つ前の場面では国から派遣された若武者が二人出て来ていた。その内の1人が主人公っぽかったが、声も顔立ちもハナヨイではなかった。次が今の場面で、どうやら主要人物の1人のようなのだが、声と身振りからして女性なのでこいつも違うようだ。
昼聞いた時ゃ出るって言ってたんだけどなあ。
急なトラブルでもあったのかと思いながら見ているうちに、話は進んでゆく。
ー やあやあ、それは都合が良い。やって来るなら迎え討ち、この身を夜叉と成しまして、父の仇をとりましょうー
語尾を伸ばす独特の節回しで言いながら、夜叉姫が舞台前方ギリギリに移動する。薙刀の柄で舞台を突くと手下二人と音が合い、ダンと鈍い音が揃った、同時に夜叉姫の視線がバチっとアサヒを見る。
この近さで見て初めて、アサヒは気づいた。
こいつ、ハナヨイか?
思った時、夜叉姫はふっと口元を緩め、衣装を翻しながら中央出はけに消えた。
若武者二人が夜叉姫の元に着いてからは展開が早かった。
笛太鼓と掛け声が激しくなり、若武者と手下の戦闘シーン。狭い舞台で4人のチャンバラは難しいからだろう、乱闘シーンは全て回転で表されている。4人がぶつかることなく高速で回転する途中、タンっと拍子木が鳴る。
と、パッと4人の衣装が変わり、腰元に錦の布を巻いた着物になった。腰布は回転するたびに巻き上がり、舞台は一段と華やかだ。手下2人がやられると、満を持して夜叉姫が登場する。姫の薙刀と若武者二人の剣舞。そしてクルクルと回る戦闘シーンの途中に、いつの間にか姫の顔が夜叉の面になっている。
曲のテンポがどんどん上がり、それに合わせて3人の回転も早くなった。
ザンッと、姫が武者二人に斬られると、舞台右袖から白テープがサアッと飛んだ。空中で何筋かの細いテープに分かれ夜叉姫にかかり、姫が倒れ込む。
これで終わりか?と思った瞬間、静かだった曲調が激しく転調した。武者の間を割って現れ出た夜叉姫の面はまた変わり、大きく開いた口から牙が見える恐ろしい鬼面になっている。この一瞬に持ち物も薙刀から、短い棒の両端にポンポンがついた物に変わっていた。
曲がピタッと止む。
カァンと、拍子木の音だけが響く。
カンカンカンカンと拍子木の音が鳴るのに合わせて舞台前方に走り出た夜叉姫が、片足を高く上げ武器を高く掲げた姿勢でピタリと止まった。
床が回転しているんじゃないかと思えるほど1ミリたりとも揺らがない姿勢のまま、ジリジリと方向を変える。
そして、完全に観客に背中を向けてから数秒の無音の後。
太鼓、笛、掛け声、拍子木の、最も激しい乱調が始まった。
回転、剣舞、ジャンプ、殺陣。
音と動きの洪水の中、役者は舞台の隅から隅まで跳び回り、踊り狂い、剣を合わせる。
夜叉姫が斬られる。
赤いテープが舞台左袖から飛ぶ。
それが数本に分かれるのと同時に夜叉姫がクルリと倒れ伏し、さっと中央幕が引かれて姿が消えた。
曲がゆったりとした物に変わった。残った二人の若武者が扇をひらめかせて踊る。振り付けの一部に頭を深く下げる所作があり、これを感謝の礼として、若武者が1人ずつ舞台袖に入って行った。二人が消えると音楽がフェードアウトして消え、囃子方の座員たちが楽器を下ろした。
お囃子の人々が一人一人、頭を下げると奥に入ってゆく。舞台には誰もいなくなったが、余韻の消えないアサヒは拍手をし続けていた。はたと気づくと最前列の子どもたちと女性にじっと見られている。拍手をしているのはもう自分だけだった。
そんなアサヒに子どもたちはニパッと笑顔を向けた。
「ありがとーございましたー」「これからもご贔屓にー」とませた口調で言うのに、女性は苦笑いで言った。
「はいはい、皆ありがとよ。さ、明日も寺子屋があるだろ。さっさと寝ちまいな」
はーいと返事をした子どもたちが手を振って去ってゆく。それに不器用に手を振り返したアサヒが席を立とうとすると、女性が話しかけて来た。
「あんたもハナヨイに引っ張られて来たクチかい?」
「あぁまあ…そうだな」
答えたアサヒは席に座り直す。
「へえ」
言ったなり、女性は探るようにアサヒを見る。
「さっきから何なんだよ。こんなナリをしちゃあいるがヴァサラ軍の一員で、二番隊隊長をしてるアサヒってモンだよ。疑うんなら軍まで来るか?」
「旅回りのウチらでもヴァサラ様の名前くらいは知ってるよ。で、その隊長さんが、うら若い少年に引っ張られて舞台を見に来るわけかい」
鋭い眼光で聞かれ、アサヒは思わず言った。
「…なんだよ。やけに含みがあるじゃねえか」
「私ゃハツネってんだ。一座の世話役みたいなもんで、ハナヨイの両親とは仲良くさせてもらったからね。あの子の持って帰る大金を見て何して稼いでるか大体察しはついてんだが、私にゃ絶対言わないだろうからさ。あんたは何か知ってるかなと思っただけだよ」
軽く息をつき表情を緩めると、ハツネは言った。
「…いや。試すような言い方して悪かったね。今日のあの子の舞台を見てて、あんたは買っちゃあいないだろうとは思ってんだ。そういう相手にお愛想でする顔とは違ったよ」
何てことしてんだいと叱りつけ、そんな稼ぎ方をした金をもらうつもりはないね、と金を叩き返して終われれば簡単な話だ。だがそうしたところで、カナデはより慎重に同じことを繰り返すだけだろう。
まだ地方巡りができていた頃、人通りが少ない街の外れに小屋を張ったことがある。その舞台裏でカナデの両親は殺された。一座のものは街の旅館に宿泊していたので、一部始終を見ていたのは息子であるカナデだけだった。
旅館に帰って来たカナデは、両親が死んだことだけを淡々とハツネに伝えた。
連れて行かれた舞台裏で体の一部が欠損している遺体二つを見た時、裏稼業を生業とする家に生まれたハツネはすぐ分かった。誰かが依頼されてこの二人を殺し、体の一部は証拠として持ち帰ったのだと。
供養してくれることを期待し、遺体は夜の内に近くの寺に運び入れた。次の日カナデは、両親が死んだことで座員が2人減ったことを詫び、皆の前で頭を下げた。
妙な雰囲気の中、そこでの芝居は千秋楽まで続けた。しかし公演が終了すると、腕のある芸人やベテランの役者が次々と辞めて行った。座員が何者かに殺されたなどという不気味な一座にわざわざいなくても、彼らくらいの実力があれば欲しがるところはいくらでもあったからだ。彼らが辞めるに伴い観客が減った結果、収入が激減して旅回りすらできなくなった。
今いる大人の座員たちは、少なからず、カナデを心配して残った者たちだ。それを知っているからこそ一座の状況に責任を感じ、皆を何とか不自由なく暮らさせようとカナデは頑張っている。そして情けないことに、カナデが自身を売って稼ぐ金は、確かに一座にとって大きな収入源なのだ
不思議と警戒心を解かせるヴァサラ軍の男に、ハツネはポロッと漏らしてしまった。
「…私らは、あの子にこうまで背負わせる気ゃなかったよ。貧乏で苦労することは承知の上だ。だがそんなことを『一座のもの』が言ってもダメなんだから、どうもこうもないよ」
じっと考えていたアサヒは言った。
「実は、14のガキが金のために体売ってるなんざ、どんな劣悪な環境かと思って俺ぁ見に来たんだ。タチが悪ぃ一座だったら潰すことも考えねえとなって思ってよ。…けどあんたらはあんたらで、あいつのことを気にしてんだな」
ハツネがため息をつく。
「ハナヨイのやつ14って言ったのかい?あの子はまだ13だよ」
「まーたサバ読んでやがったか」
アサヒは声を上げて笑い、続けた。
「まあ、あんたらとハナヨイの間に何か事情があることはわかったよ。色々と複雑なこともあるかもしれねえが、俺はあの商売だきゃ辞めさせてえんだ。いつかマズいことに足を突っ込むハメになりそうでよ。何か良い手を考えねえとなあ」