Episode Ines
イネスの2人目の父親であるジャンニは体が悪い。
今通っている寺子屋では学級委員のような役目をもらっているのだが、そのための早退や欠席はちょくちょくある。
しっかり頼んであるので、何かあった時にはハズキ隊長から直接連絡が来ることになっている。なので昨晩入院したと聞くことができ、今日も急いで帰って来た。どうもあまり食べられていないらしいので野菜とあらごしトマトの煮込みを作ろうと思い、途中で買い物もして帰る。野菜の形がなくなるまで煮たものならおそらく食べられるはずだ。
だが家に近づくと、サンドバッグを打つ音が聞こえて来た。
トレーニングをしている時は常にそうであるように、窓もしっかり開いている。窓から覗くと正にルーティンの最中で、思ってたよりずっと元気そうだった。
それをずっと眺めていると、ふと動きを止めたジャンニがサンドバッグを手で止めながらこちらを見る。
「おかえり。早かったね」
「入院したって聞いたから帰って来たわよ。でも元気そうで良かったわ」
いつもの笑顔が見られ安心し、笑顔で答えた。
せっかくまた家族ができたのだ。イネスはもう二度と失いたくない。
イネスの両親は信心深かった。
仕事がない日曜はスラム街のジャンニの家にわざわざ尋ね、家族で日曜礼拝も行った。派手な髪色が多いこの国で、黒髪とやや褐色の肌が特徴的な背が高いこの牧師のことを、イネスはちょっと怖いなと思っていた。
家族は妹と両親の3人で、4人家族だった。家としては貧しい方で、共働きだった両親の代わりに、物心ついた時から家事全般を担っていた。生まれつき体が弱い妹もイネスがずっと世話をしたり看病したりしていた。
体が弱いからといっておとなしかったわけではない妹は、喘息が出たり熱があったりしなければ家中を走り回り、イタズラをしてはイネスに怒られていた。明るい性格で笑顔を見ることが多く、イネスも一緒に笑って過ごせて妹が大好きだった。
だがしかし、妹は喘息発作で突然死んでしまった。夜中のことで、すぐに呼べる医師も看護師もいなかったのだ。
妹の枕元で祈りを捧げているジャンニはいつもは着ていない黒い長いガウン姿で、普段と違うことが起こっているのは理解できた。だが6歳のイネスには、妹が死んだということが本当は良くわかっていなかった。
「妹は死んだ」という言葉の意味はもちろんわかる。もう二度と会えないんだということもわかる。でもその二つはどうしてもしっくり来なくて、イネスは多分、二度と会えないことが悲しくて泣いていたんだと思う。
次に父親が死んだ。すれ違うと数日顔を合わさないこともあるくらい良く働く人だったが、いつもならそれくらいでは休まないのに、ある日ちょっと風邪気味だと言って休み、一週間も経たない内に大量に血を吐いて死んでしまった。
急だったし死に方が衝撃的だったのもあるし接する機会も少なかったからか、妹の時のような悲しみは正直薄かった。ただ、ジャンニと話している母親の様子を見ていると生活が大変になりそうなことが非常に良く分かり、自分はどうすれば母親を助けることができるのかと、そればかり考えていた。
父親の分まで働き出した母親はイネスが7歳の時、父親と同じような症状で死んだ。朝起きたら、固まった赤黒い血のこびりつく炊事場で、流しに引っかかるようにして冷たくなっていた。それを、どのくらいだろうか。ぼんやり眺めていると、近所の人がイネスのその姿を見つけたらしい。
ジャンニが駆け込むように家にやってきて、イネスを抱き上げるとそのまま自分の家に連れ帰ったのを覚えている。
3食とおやつが出て来て、いつも目が届くところにいるジャンニと取り止めのない話をして部屋でぼんやり過ごしたり、字を習いながら本を眺めたりして1日が終わって行く。母親が死んだことは覚えていたが、何故か気持ちが全く動かなかった。
しかし、何日か経ったある日ふと、イネスは思ったのだ。
「家に帰ってみようかな」
妹も父も母もいなくなったのは覚えているしわかっていたのに、その時は何か、自分が知っている家と家族がそのまま、まだ残っているような気持ちでそう思っていた。
だがジャンニが家の鍵を開けた瞬間目の前にあったのは、家具の配置も置いてある物も全て元通りのはずなのに、自分が全然知らない家だった。
混乱した気持ちで思った。
ここは私の家じゃない。
「…ここじゃないのよ…」
心に浮かんだ言葉をポツリと呟いたら、今まで凍っていた感情が一気に溶け、胸を焼いて身体中に溢れた。
「嘘つき!ここじゃないのよ!」
喉が痛むほど怒鳴ると、ジャンニはイネスと同じ眼の高さにしゃがみ、目を見ながらはっきりと言った。
「ここなんだよ、イネス」
瞬間その体を突き放し、近くのダイニングテーブルまで逃げた。
床に片膝をつき、絶対嘘ではないとわかる真摯さでこちらを見ているジャンニのことが、まるでこの人がそう言うからそうなってしまっているような気がして、腹が立って憎くて仕方なかった。
気持ちはどうしようもなく収まらず、その姿に思わず、横にあったテーブルの椅子を思い切り投げた。転がりながらぶつかって来る椅子を避けようと思ったら避けられたはずなのに、ジャンニはそこで同じ姿勢のまま全く動かなかった。
机の上の本を投げ、テーブルクロスを投げ、テーブル上の果物カゴを投げた。机の上に投げるものがなくなると、今度は食器棚の食器を投げた。ジャンニや壁にぶつかった皿はいくつもの破片になり、部屋の床を埋めて行った。
何も見ず手につくもの全てを投げている最中、目の前にあったはずのジャンニの姿が不意に消え、イネスを片手で抱きしめる形で背後から拘束した。イネスが手を伸ばした引き出しの中にはナイフやフォークがあり、残った片手で引き出しを抜いたジャンニはそれを背後に投げ蹴り飛ばすと拘束を解いた。
傷つくことなんか構わなかったのに、自分を守るようなその行為にイラついて
「嫌なのよ!」
大声で言うと、涙がとめどなく流れて来た。
「いるんだから!!ここにはみんないるんだから!!」
自分でも訳が分からないことを言っているとわかっていた。
でもそうでも言わないと変になりそうだったのだ。
「何でなの⁉︎ 何で私しかいないのよ‼︎」
目の前の、自分も泣きそうな顔でこっちを見る牧師は
「…ごめん。本当にごめん」
そう言うと、しゃがんでイネスを抱きしめた。
謝り続けるその声を聞きながら腕の中で思い切り泣いていると、どこかでスッと気持ちが降りて来るのがわかった。
自分の家族は皆いなくなってしまったことが、そしてそれは、このずっと謝っている人のせいではもちろんないことが、少しずつ自分にはまって行く気がした。
「もう大丈夫」
言って胸から顔を上げた時、涙が急速に引いて行くのがわかった。
「私の家族は死んだ。そして、それはあなたのせいじゃないわ」
それをゆっくり頷きながら聞き、
「うん、わかった」
と、ジャンニは少し微笑んだ。
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