ヴァサラ幕間記〜小話7
昼下がりにヴァサラも思う
一緒に街に来た少女は宗教施設にいるのだが、件の万引き少年はなぜか少女の叔父の元にいるようだ。どういう話になったか知らないが、住み込みで働いているらしい。その少年の体を借りている関係で、学者がやって来るのは店が閉まった夕方以降になる。
…というわけで、少年であるところの学者が商家へ帰宅した後から次の日の夕方までは、ヴァサラの自由時間になるのだった。
その間、ぶらぶらしたり飲みに行って客達と話したりすることも多いのだが、今日は学者が選んだ本がいくつかある。どこにも行かず、本と学者の対訳をずっと眺めていた。
この部屋にこれだけある本を、学者は一冊も使わない。ヴァサラの持っていた地図を眺めながら、世間話のように語るだけだ。国の気候から熱帯雨林の話になり、雨がどうやって降るかから水の原子の話になる。それは空から宇宙の話になり、エネルギーの話から歴史の話、そしてまた植生の話に戻ったりする。その話を聞いていると、草木が生え生物が飛び跳ね、生まれるものと消えるもの、万物が流転し永久に繋がってゆく様子が生き生きと、立体的に地図から見えて来る。
自分が微生物になり魚になり、人に進化して帰って来ると何時間も経っており、まるで頭のスイッチが切れるようにもう何の情報も入らなくなる。そして朝でソファの上で、自分が眠り込んでしまったことに気づくのだ。
上向きに寝転んでいるソファからは天井までの本棚と本が見える。
それらが全て落ちて来て自分が埋もれるイメージが不意に浮かび、うわっと起き上がった。今まで読んでいた本が毛布に引っかかって床に落ちる。
それを拾って元のページに対訳の紙を挟み直しながら呟いた。
「果てしねーなぁ…」
この本一冊読むのだってこんなに時間がかかるのに。自分が知らなければならないことは、一体どれだけあるのだろう。
ふはっと急に変な笑いが漏れたのは、カムイのことを思い出したからだった。
やっぱ、あいつはすげえんだなあ。
ヴァサラだって仕事が変わるのに合わせ、必要な勉強をしては来た。だがカムイは物心ついた頃から、国の一流教育者の教育を体系的に受けている。おそらく城の図書室の本などはほとんど読んでいるだろうから、教養という意味では、国でそう並べるものはないほどのものを身につけているはずだ。なのに、今まで一度もそんなふうに考えたことがなかったのは、ひとえにカムイのヴァサラへの接し方のおかげだった。
それだけじゃない。ヴァサラはずっと、国を変える話を、自分が覇王になる話をカムイにし続けて来た。それは自分の家系と両親、ひいては自分自身を否定されることに他ならないはずなのに、カムイは腹を立てるどころか常にヴァサラに協力的だった。
思うのだ。
国の皆が希望を持てるのは、ヴァサラが奴隷の身分から将軍の身分に成り上がれたからではない。国一番の身分である王子カムイが、その成り上がった自分を見下しもせず馬鹿にもせず、本当に対等に付き合っているその姿のためなのだと。
一人でしなくてもいいか。
ヴァサラはまたソファに横になった。ピークを過ぎた陽光は暖かく甘い。
俺は俺が持って帰れるものを、できるだけ持って帰ろう。あいつが持っているものと俺が持っているものを二人で全部見て、それから足りないものを探せばいい。
自分にしかできないことがあり、カムイにしかできないことがある。そんな風に分け合える相手がいることは何か幸せだなと。
とろけるような光の中、ふわりと気持ちの良い眠気に包まれながら。
昼下がりに、ヴァサラは思う。
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