ヴァサラ幕間記16
7 青年ヴァサラと学者の話
緑豊かな土地だと思っていたらそのほとんどがぶどう畑だということに驚きつつ、絨毯のように刈りそろえられた木々の向こうにポツンと城が見える場所にヴァサラは立っていた。遥かに広い畑は城の住人の持ち物であり、ここだけでいくつかの種類のワインを大規模に生産しているらしい。
こういった大きい生産者もいれば、街の道端の小さな畑で作ったぶどうから十数本だけ生産する小規模な生産者、バルコニーの屋根で家族用にのみワインを作る者もいるらしく、もはやどれが普通の庭木でどれがワイン用のブドウなのかわからない状態だ。
もうちょっと天気が良ければ壮観だったろうなと思いながら曇り空を見ていると、待っていた人物が来た。
少年…の中に入っている学者である。
「まあ、狭いところだが」
と案内されたのは、大通りの小道の奥の小道の隙間とも言えるような場所だった。体を横にしなければ入れないような建物と建物の間に入りしばらく行くと、壁に唐突にドアがある。
ほんっとに狭いなと思っていたが、部屋は半地下になっていて広く、意外と快適そうな作りだ。降りてきた階段の横にある細い窓の外を見ると、今歩いてきた道がちょうど目の高さに見えた。細い窓はまだいくつかあり、一番明るい窓の外にはブドウらしき影が見える。近寄ってみると、窓にたどり着く直前に何かにぶつかった。
学者がつけ回っていたランプがいくつか点ると、それが書き物机であることがわかる。本がいくつも積み重なり、紙が乱雑に置いてあり、色々な文字で書き殴ってあるのは本からの抜粋のようだ。
振り返ると、この部屋の全体像が見えた。ヴァサラが今いる場所が一番低い部分らしく、残り三分の1ほどは2段の階段で登るくらいの高さがある。壁の全てが天井までの本棚で本がぎっしり詰まっており、家具はベッド代わりらしいソファ1つだけだった。本棚にはハシゴがかけてあり、その先の棚にはいくつか抜けがある。床や机に積み重ねてある本が入っていた部分のようだ。
圧倒されたヴァサラは思わず呟いた。
「すげえな、これ…」
こんな本棚と本がある部屋など、城の図書室くらいしか見たことがない。
「本屋の倉庫か何かで、ここに売り物にならない本を置いてたんだろうな。本は全部最初からあった」
ハシゴの半ばまで登った学者が一冊本を取り、ヴァサラに投げ渡す。開いてみたが、全く見たこともない文字だった。
「変わった文字だろう。ここ辺全土で昔は使われていた言葉だ。もう読める者がほとんどいない」
「あんたは読めるのか」
とりあえず本の挿絵部分だけを辿りながら聞くと、学者は答えた。
「もちろん読める。私は歴史学者だからな」
意外な答えに、学者を見上げる。
「古生物学者じゃないのか?あんたの娘さんはそうだろ」
ハシゴから飛び降りた学者は、少年の姿のせいか不敵にも見える笑みで言った。
「教養というのは一般的なことは普通の人より知っていて、専門のことは誰よりも知っていることを言うんだ。…つまり私は、古生物にも詳しい」
…もったいねえなあ…
そのことを素晴らしいとか凄いとか思う前に、去来したのはその思いだった。あらゆることを知っているということはあらゆることを繋げられるということ、それは世界を立体的に見られるということで、学者の言う教養というのがそれなのだと思ったからだ。
生き生きと地図中を旅していた学者の娘が、その何よりの証明に思えた。
「お前わかりやすいな」
声が聞こえたヴァサラは我に返り、声の方に目をやった。
いつの間にか本棚から戻って来ていたらしい学者が笑いながら続ける。
「心配しなくても、こんな老人を超える者は次の世代からいくらでも現れる。知識自体大した物でもないし、本を読んでいれば偉いわけでもない。どうやって覚えるか、どれだけ覚えられるかは単なる適性の違いだ」
だけどな、と一旦言葉を切った。
「知識の選択と活かし方は、大きな問題だ」
学者が書き物机に座ったのでヴァサラも床の高くなる位置に腰をかけた。見下ろし、見上げていたものが同じ視線の高さになる。
「国を大きく動かす時は独裁も悪くない。民度が高ければ共産主義も良いだろうし、民主制であったとしても、声が大きいものがいれば専制君主制と変わらない。政策も同様だ。開国すれば新しい文化が入って来るが、鎖国をしていれば国独自の文化が守られる」
そして、射抜くような視線で静かに続けた。
「お前は、どんな国に住みたい」
どんな国にしたいかではなく、学者はヴァサラにそう問うた。
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