第二十二話
機械の交換手術も検査も無事終わった3日目の朝、荷物を全て片付けた千聖はベンチまで降り、毎日来てくれた黒猫を今日こそは抱き上げて心ゆくまで頬擦りする。
「コクロのおかげで淋しさが紛れたよ。本当にありがとうね。大学に帰ったらクロに兄弟に会ったよって報告しとくから」
大学の黒猫は学生それぞれで呼ぶ名前が違うのだが、ネーミングセンスがない千聖は何もひねらずクロと呼んでいた。コクロとは、その兄弟で多分弟だという予想から勝手につけた名前だ。昨日サンドラに持ってきてもらったチュールをあげ思う存分撫でると、手を振って建物内に戻る。次に来たときも会えたらいいなあと思いながら部屋に入ると、千聖を担当してくれていた研修医の正義が何か書きながら待っていた。
びっくりして急いで入ろうとするのに目をやり「走らなくていい」とちょっと手で制す。
この先生は本当に熱心で1日に何回も訪ねてくれ、時には私服なのに、近くを通ったからと病室を覗いてくれていた。早朝から夜遅くまで満遍なく顔を見る気がして心配なくらいだったが、コクロと共に、傷心の千聖を本当に癒してくれた。この先生で良かったと思うし、できれば今後も正義が担当医だったら嬉しい。退院前の診察があるのはわかっていたので時間を聞いてから行こうと思っていたのに、今日もわざわざ自ら病室の方に出向いてくれているのだ。
脈をとったり聴診器を当てたりなど一通り終わった後、これから家に帰ってから先は何でも1人でしなくちゃならないんだなと心細くなった千聖はふと呟いてしまった。
「先生くらい賢くてハンサムなら、好きな人のことで悩んだりしなくてすんだのかな」
年が近いので気安くてついポロッと言ってしまったが、診察と関係ないことを言ってしまったと焦り、慌てて言葉を継ぎ足す。
「ごめんなさい、なんか変なこと言っちゃった」
あははと妙な照れ笑いをしてしまった千聖をちょっと見てから、正義は無言になった。
…だよね。こんなこと言われても困るよね。
居心地の悪い空間でモジモジしていると、おもむろに口を開く。
「俺の好きな相手は、俺なんかよりずっと賢くてハンサムだ。それに、すごくモテる。でもそれについては悩んだことがないのはなぜだろうと今考えてみたが…そいつが人に見せない顔を知っていて、それをこそ俺は信じているし愛してもいる…からかもしれない。…まあ、付き合いも長いしな」
この、生真面目を絵に描いたような先生から愛などという言葉が出たのが意外で、千聖の方がちょっと赤くなってしまう。何ということもなくカルテ書きに戻った正義を見ながら、千聖は思った。
そっか。僕は満月の割とすぐ泣いちゃうところとか意外と気弱なところも大好きだから、満月の全部が好きっていうのは他の人には負けないかな。
叶芽と会った翌日、BKD部室では弥幸と星陽が同人誌を読み耽っていた。問題解決という本来の目的はすっかり忘れ、椅子がわりのベット上には何冊も本が積み重ねられている。
星陽は読んでいる本の中の1ページを、本をひっくり返したり近くで見たりしていた。
この体勢、どこが何でどうなってるんだ?
横にいる弥幸にページを見せながら聞いてみる。
「弥幸。これ、どれが体でどれが布団で足がどうなってるかわかる?」
横から覗いた弥幸はサングラスを少しずらし、顔を本に近づけた。
「これが布団で、こっちが服だろ?だとすると、これが手…あれ?」
指差し確認をしながら考えていたが、やはり難しいようだ。
マンガのコマを見ながら、星陽はベッドに寝転がってみた。
「ちょっと弥幸来て。あ、お前の上着布団がわりな。…えっと、この手がここで、これが掛け布団だろ」
とツイスターゲームのように2人で手足を置いていっていると
「待て星陽」
言った弥幸が本棚の方へ目をやった。その影で携帯を動画にして構えているピンク髪が見える。
「いつの間に部屋に帰って来てたんだ」
表情もあからさまにチッと舌打ちをしたピンク髪が、携帯を死守しながら本棚の後ろから出て来る。人1人隠れられる空間あったかなと不思議そうな星陽が、本棚の後ろを確認しに行った。
「数十秒前です。ほーんの数十秒前」
という返答は絶対嘘だろという確信があったが、うっかりBL同人誌を読む会になるところだったと気づけたのは良かった。
そして、弥幸は改めて思う。
これはあいつらの問題なんだよ。あいつらでどうにかするしかないだろ。
最初からうっすらとそう思ってはいたのだ。
自分でわかるのは自分の気持ちだけなのだから、相手の気持ちをうだうだ考えてる時間自体、無駄だ。
弥幸は携帯を出し、満月に電話をかけた。すぐに繋がった電話口に言う。
「…悪かったな千聖じゃなくて。お前、つべこべ言わずに千聖に会って謝って告白しろ。…は?じゃあさっさと病院行け。なんでまだ家出てないんだよ」
言いたいことだけ言うと、返答を聞かずに電話を切った。
これでいいだろ。後はお前が頑張るとこだ。
仲直りしたら千聖にこっそり貸そうかなと、満月と千聖っぽい2人が出てくる薄い本の全シリーズを借り、名残惜しそうな星陽を引っ張って部室を出た。