Episode Manawa〜切り抜き数葉
一葉
「お、始まった」
時計が10時を指すのを見て、マナワは急いでベッドから起き上がり窓を開けた。隣で寝ていた女性もつられて目覚めたらしく、裸体を掛け布団で隠しながら起き上がる。
「アンタも好きよねえ。毎日あの教会の子見てんだもん」
「なかなか見ものなんだって。毎日なんとか逃げ切ってるもんな」
と言っている目の前で、5〜6メートルの教会の壁を身軽に飛び越え、10歳くらいの褐色肌の少年が目にも止まらぬ速さで駆け去って行った。
数十分後、同じ少年が両手に買い物袋を抱え戻って来る。いつものようにゴロツキ数人が追いかけて来るが、これがまたギリギリのところで器用に避けながら逃げるのだ。
両手が塞がった状態なのに、塀に飛び乗って屋根に登ったり、停まっている車を飛び石のように足場にしたり、ゴミ箱を蹴り転がし道を防いだりする。
教会に一番近い家の屋根に登ればゴールだ。今日も屋根から教会の土地内に飛び降り、うまく巻いてしまった。
すげー運動神経だな…。
少しずつ工夫をして逃げ切るこの攻防戦を毎日見るのがマナワの日課だ。
その牧師見習いの子どもがついに進退極まったのを、マナワは窓辺から見ていた。
向こうもこれだけ逃げられては面子が立たないのか、もはや引ったくりとは言えない人数で囲んでいる。
あーあ、死んだな。
日常茶飯事のことなので通りすがりの大人は誰も助けないし、マナワももちろん助ける気はなかった。これで楽しみが減るなと残念には思いながらも、ガラの悪そうな青年達の中に姿が消えた路地裏を見ていた。
3分くらいかな…。死体になったら警察に連絡くらいはしてやろう。
そう思っていたのだが、なかなか終わらない。何なら1人2人、集団から外れて歩道に投げ出されたりしている。
マナワは何が起こっているか気になってきた。
ベッド横の履き物を窓の外に投げ、軽くつっかけると見られる位置まで移動した。
うわ…マジか…。
少年は出血や殴られた傷でボロボロだったが、この大人の集団相手にかなり健闘していた。
足元には破れた袋やそこから投げ出された果物や缶詰があり、それを庇いながら戦っていたようなのだが、それらはもう踏み潰され、通りすがりの人間に盗られたりして、ほとんど残っていなかった。
そして、見間違いでなければ、少年は薄っすらと笑みを浮かべていた。
目の前で繰り広げられている光景を、マナワは信じられない気持ちで見ていた。
少年は殴ってくる拳を避け足に抱きつき倒し、頭に蹴りを入れる。蹴られればそれを躱し、小さい体格を生かして集団に潜り込んだりもする。背後から膝裏を攻撃し、数人同時に路地に転がった。
しかも、見ている間だけでもどんどん技術が向上している。このままいけば10人くらいは倒せそうだった。
多分初めてだろ?なんで絶対的に不利な体格差逆に生かして効率的に戦えてんだ。
マナワは才能に溢れたキックボクサーというわけではなかった。
体格が小さく筋肉もつきにくいし、運動神経も最高レベルに良いわけではない。ただ、テクニックだけは人よりあるという自信があった。
だが、今。
自分にないものを全て持った人間が目の前にいる。
しかも、まだ手付かずの状態だ。
足元から血が沸き立って来るような高揚感を感じた。
〝こいつがどれほどの物になるか育ててみたい〟
突然天啓のように打った言葉に、マナワはその集団に割って入った。理性では、ここでこんなことをしても一文の得にもならないことがわかっていた。
けれど体を押し出す感情に抗えない。
元々プロで優勝していた人間と、喧嘩が強いとはいえただの素人では歴然とした差があり、数分で三分の一ほどの人数になる。その時点で、動けるものは波が引くように逃げて行った。
それを見送ったマナワが目を向けると、少年は意識があるかないかの男の頭を無表情で踏みくだこうとしている所だ。
それを背後から抱いて止め、マナワは声をかける。
「その辺にしとけ。お前仮にも教会の人間だろ」
少年は足を止め振り返った。感情が消えた目に一瞬光が揺らぐ。
そして、そのまま気を失った。
抱き上げた少年は骨格がしっかりしていて見かけより重かった。
こいつデカくなるだろうな…。
思うにつけ、こんな逸材が牧師見習いなんかしているのをつくづく勿体無いと感じた。
二葉
もう何度目かわからないほど地面に叩きつけられた少年は、座り込んだまま立ち上がろうとしない。
その姿に反抗的な雰囲気を読み取ったマナワは声をかけた。
「言っとくけど、そのまんまでいても終わんねーぞ、ジャンニ」
今まで格闘経験のない人間にするトレーニングとしては厳しいことは、マナワも分かっていた。しかも牧師の修行が全て終わった夕方から夜にかけてと休日にやっているのだから、子どもとしては大変な負担だろう。
しかし、最初はトレーニングのキツさに食べたものを戻していたのがもう平気になっている。その体力だけでも才能だと思う。
あの喧嘩の時の状態が信じられないくらい普段は寡黙でおとなしい性格で、牧師修行の賜物なのか忍耐力もあった。文句を言わず筋トレやスパーリングもこなしていたが、多分来るだろうなと思っていた反動が今日来たようだ。
「何で僕がこんなことをしなければいけないんですか」
言葉も口調も激しくはないが、見上げる瞳は涙で潤んでいる。
こういうとこなんだよな…。
もっと感情のままにぶつかって来てくれた方が、マナワにとってはやりやすいのだ。ぶつけられた感情をそのまま返せばいいのだから。
しかし涙が溢れるのを堪えながら、抑えた感情全てが乗っかった一言をポツンと言われるのは痛い。
確かに何でだと思うだろうなと心では思いながら、本当に可哀想だなとも思いながら、しかし表情を変えずにマナワは答えた。
「強いに越したことねーだろ」
答えになっているとも言えない、しかし絶対に否定できないことを言われ、ジャンニは目を伏せる。
「お前何がしてーの?ここの中で何か言ってれば誰かが救われんの?聖書の言葉100個聞くより、黙って死にそうなヤツのそばにいる方が意味あるってことぐらい俺でもわかるわ。お前が助けんの人間だぞ」
近づいて胸ぐらを掴んだ。
「いいか。体格も運動神経も格闘センスも才能なんだ。誰もが持てるもんじゃない。神様から与えられたもの生かして人救えんのに、やんねー理由あるか?」
〝俺がお前を育ててみたいから〟
という本音をうまく隠す大人の言い分を自分でも狡いと思う。
しかしジャンニは掴まれた手を外すと涙を拭き、立ち上がった。
ファイティングポーズを取るジャンニに向かってマナワもグローブを構える。
「Ok,Fight.」
後ろめたい気持ちが心を削る。
三葉
教会内の牧師が寝泊まりする部屋の裏で、見知っている男と見知らぬ牧師が話をしているのをマナワは見かけた。その組み合わせは怪しすぎ、何となく聞き耳を立ててしまう。
「それにしても極みってのは何だか知らねえが便利なもんだな。そこへんの砂糖やら小麦粉やらでも麻薬のような作用を持たせたりできるらしいぜ」
これは良く知っている男の方で、マナワがクスリを買っていた売人だった。
「なるほど、国の売り買いねえ。まあ何とかここに潜り込めたところだし追々考えるよ。今回はかなり流せるんじゃないかな。その…極みとかいうやつの砂糖とか塩とか?それあれば最強なんだけどね」
これはほぼ教会に住んでいるマナワも初めて見る牧師だった。
はあ…教会からクスリ流すわけだ。まあ良い商売になるだろうな。
以前の自分だったら買いやすくて便利だなと思うくらいだったろうが、今のここは、自分の唯一の生徒が継ぐ予定の教会だ。
こんなことがバレて潰させるわけにもいかないが、聞かなかったことにもできない。
「悪ぃけど聞こえちゃった」
声をかけると2人はギョッとして振り返る。売人の男がバカにしたように笑った。
「何だ、ジャンキーの売春婦かよ。…ああ、お前ここの牧師と仲良いんだったな。そりゃ聞かれちゃまずかった」
目配せをした途端、牧師が黒いガウンを脱いだ。手には光り物を持っている。
「そうなんだよ。俺の唯一の生徒だからな。このまま見逃すわけにはいかねーよなあ」
言った瞬間、牧師が切りかかって来た。が、ジャンニより格段に遅い。
「…いや、やっぱあいつすげーな」
あまりに余裕すぎ、呟いて避けながら殴れるくらいだった。ちょうどアッパーカットになり、牧師の体が地面に投げ出される。
売人は驚愕したようにその光景を見た。そういえば、昔キックボクサーだったのをこの男は知らないのだ。
「言ってなかったよな。売春は副業でさ、元々こっちが本職なんだわ」
売人がちっと舌打ちをした瞬間、建物の裏から数人の男が出てきた。
ここジャンニも寝てんだよな…。
今や教会の責任者に近い立場となっている。あまり騒がしくすると、気にして出てくるかもしれなかった。
これから教会を継いで婚約者と結婚し、平和で立派な人生を生きていくはずだ。
できればこんなことなど耳に入れず、何もなかったように処理をしたかった。
礼拝堂の裏に行くか。
残念ながら、マナワにはジャンニほどの速さも身軽さもない。だがここから礼拝堂の裏ぐらいの距離までなら、追いつかれず引っ張ることができるだろう。
礼拝堂の裏で向かい合った男たちは10人弱だが、皆それなりに鍛えられた男ばかりだった。今の時点で後4人になったが、どこから来たのか更に5人増える。
体力的にもう限界だった。
全員を倒して自分が無事であるというベストの状態は望めそうにない。
…死ぬかもな。
もっと早くにそこら辺で野垂れ死ぬ予定だった。
思ったより随分長く生きたし死ぬことは別にいい。
けれど死ぬ前に、ジャンニに謝罪と感謝を伝えておきたかった。
何だかんだ綺麗事を言っていたけど、キックボクシングを教えたのは結局自分のためだったこと。けれどそれに十分応えてくれたこと。
こんな落伍者の生徒としてはジャンニは申し訳ないほど優秀で、おかげで人間らしい生活に戻れて寿命もだいぶ伸びた。
お前にもらったような命だったな。
ふっと思った瞬間、周囲の音が消えた。
自分の鼓動の音だけが規則的に響き、体の痛みや疲れが全て消える。
これ…あれだ。
マナワは久しぶりに思い出していた。
これは、キックボクサー生活最後の試合の時のあれだ。
不意に、知りもしない言葉が降りてきた。
「風の極み『tausani pua(千刃徒花)』 hau hau o ke koko(血花吹雪)」
殴りかかってきた最初の数人に応戦しようと拳を出した瞬間、その全員の身体中から血が吹き出し、目の前が血生臭い霧になりマナワにもかかる。
…何だこれ…?
試合の時とは違う何かだった。
倒れ込んだ男たちの出血は止まらず、地面の色が変わってゆく。
目の前で起こったことに、後ろの男たちの動きが一瞬止まる。
しかしすぐに全員でかかって来た。
「風の極み『hāʻule ka hua(血花落実)』」
そうだ、この言葉だ。
これが試合の時聞こえたんだ。
最初の1人に中段蹴りを入れた瞬間、男たち全てが肉片になって目の前に落ちた。
あんなに苦労していたことの全てが一瞬で終わってしまった。
嬉しいはずなのに、目の前の光景はあまりに凄惨すぎて吐きそうだ。
…これを、俺がしたのか…
そんなマナワの左肩を、何かがチクリと刺した。
四葉
「こいつどうするんですか」
倒れたマナワを見下ろしながら2人の男が話している。
「元々ジャンキーだ。薬物の過剰摂取で処理されるだろう。礼拝堂の中にでも捨てとけ」
「あの量で大丈夫ですか。もう少し打たなくて大丈夫ですかね」
「これは精神を破壊するだけでなく体組織も溶かすからね。大丈夫だよ。あまり注射跡を残したくない」
よいしょ、とマナワを肩に担いだ男が言った。
「それにしても、クスリってのは意外と費用対効果が悪いですね」
話しかけられた男もため息をつく。
「まあこれだけではね。国は大きな買い物だから、いくつか並行しなけりゃ難しいよ。全く面倒くさい話だ」
「…大きな印章を欲しがる人もいるもんだな」
呆れたように言うと、男は礼拝堂に向かう。
その背中に、残った男が声をかけた。
「ここの処理も頼むよ」
自由な方の手をあげて合図すると、男の姿は建物の角を曲がって消えた。
「まさか極みの使い手だったとはな」
呟くと、男も歩き出す。
その背中が徐々に小さくなり、夜の闇に消えた。