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花調酔之奏(はなしらべよいのかなで)〜花酔譚
5 アサヒとカナデ⑤
見たことのない部屋の中だった。
アカンサスの葉が彫ってあるラベンダー色の天井。花の蕾を模した、磨りガラス製のシャンデリア。壁は、セルリアンブルーにシルバーラメでダマスク模様。シャンデリアと同じ花が開いた形の、壁掛け燭台がある。猫足のサイドテーブルには絹布の傘がついたランプ。傘には東の国風の民族模様があり、端には金糸の房が揺れていた。
窓枠らしきものは全て額縁で窓はない。湖で水を飲む動物、森で踊る女神など、絵の背景は自然が美しく、それらが窓のような役割になるおかげで圧迫感が全くなかった。ベッドの上にいるのだが、今は朝だろうか夜だろうか。
…ベッドの上?
ハナヨイは布団を跳ね除けて起きようとした。
だがバランスを崩し、再びベッドに投げ出される。
手首は後ろ手に、足首も縛ってあった。
ベッドヘッドは壁の彫刻で代用してあり、顔が隠れるくらいの縦幅で天蓋がある。このおかげでベッド自体に拘束されるのを免れたらしく、自由度が上がっているのがありがたかった。
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手を握ったり開いたりしてみた。あと少し緩みができれば抜けることができそうだ。このまま地道にグーパーと繰り返すかなと思った時、ドアの外に人の気配がした。
なるほどなぁ…そりゃ普通そうだよな。
窓がないなら、あのドアから逃げるしかない。だが見張りがいるとなると、縄を解いただけではどうにもならない。
「あぁ面倒くせぇ…こりゃこっちから仕掛けるしかねぇじゃぁねぇか」
何か使えねぇかな……
見回して、ハナヨイは良いものを見つけた。
縛られた両足でサイドテーブルを蹴る。
乗っていたランプが倒れ、机の端に跳ね返って床に落ちた。うまい具合に電球の一部が割れ、予想以上の大きな音がする。
ドアを開け、大柄な男が駆け込んで来た。狙い通りだ。
「悪ぃな兄さん。ちょいとバランス崩して当たっちまったよ」
と、後ろ手に縛られている手を少し動かした。
「逃げやしねぇからよ。この手足の縄解いてくれよ」
男は横目でチラリと見はしたがそれだけで、事務的にランプを片づけだした。外れたランプシェードを拾うため、こちらに背中を見せている。
「手だけでもいいよ。それなら逃げる心配もねぇだろ?」
条件を下げながら、さらに交渉を重ねる。毛足の長い絨毯の隙間から電球の破片を探すため、男はしゃがんだ。
「おい。ちぃとぐれぇ聞く耳持ってくれてもいいじゃぁねぇかよ」
言うと、ハナヨイはベッドの上から男の肩に、背中側からポスっと顎を置いた。
「わかった。解けとは言わねぇ。せめて、手を縛るのを前にしてくれねぇかい」
話す声で、男の耳に息がかかった。
瞬間、男はビクッと体全体で避けた。しゃがんだ体勢が崩れ、少しこちら向きになった形で床に片胡座をかいている。
そのやや過剰な反応で
…はぁん。こりゃぁいけるかな…
思ったハナヨイは、一か八か試してみることにした。
うまく男の胡座の上に乗れるように、ベッドから落ちる。
少年とはいえ男子1人の体重だ。受け止めた男は床に押し倒され、ハナヨイを両腕の中に収める形になっている。
「あんた、いーい体だなぁ」
あっけらかんと言った後、熱を帯びせた声で囁いた。
「なぁ、男の奉仕にゃ興味ぁねぇかい?同じ体を持つ同士だ。女たぁひと味違うぜ?」
と、チラと舌を出してみる。
全く興味がなかったりお堅い人間だったなら、聞いた途端に何らかのアクションを起こすだろう。一応数秒待ってみたが、そういう訳でもなさそうだ。
男の服を咥え、裾をズボンから引っ張り出すと話しかけた。
「手の縄をちょいとだけ緩めてくれねぇか。こう固く縛られてちゃぁ痛くて集中できねぇよ」
ハナヨイの言葉に、男は特に警戒せず手首の縄を緩めた。
こうなりゃこっちのもんだ。
口でゆっくり丁寧に男の服を脱がせながら、手首の縄を更に緩めてゆく。すぐに片手が抜けたので、後ろ手に触れた足の縄も手で解いた。
全ての縄が解けたのを確認し、男の耳に口を寄せる。
「今から天国見せてやるよ」
言った刹那、男を横転させ背中に乗り、背後からネイキッドチョークをかけた。
数秒。
昏倒したのを確認し離れると、男の服を整えながらニッと笑った。
「天国ってわけじゃぁねぇが、ここたぁ別の場所にゃ行けたかね」
自分の手足を縛っていた縄で、男の両手足を素早く縛る。
急いでドアの元に寄ると、目を閉じ感覚を鋭敏にした上で外の様子を伺った。
…人気はねぇな…
ドアを開けた。
「って、また部屋かよ!」
ベッドルームと同じくらいの大きさの部屋だった。たくさんの絵が壁に立てかけてあり、どうやら倉庫のようだ。一隅にはカーペットを敷いた部分があり、畳まれたイーゼルが置いてある。壁掛け燭台の数は多そうだったが、今は、男が見張っていたドア周りのいくつかしか灯りはない。
念には念を入れとくに越したこたぁねぇ。
燭台の炎に息を吹きかけて消す。入って来た人間は何も見えないだろうが、ハナヨイに全く不便はない。これなら集団で襲われても、闇に姿を隠しながら倒すことができる。
はあっとため息を一つ吐いた。
イオリの奴、俺が誰から何を受け取ったか逐一見てやがったからなぁ。
俺が裏に入った時にゃわざわざ接待抜けて来てよ。その後人攫いに狙われて大トリに本人登場と来ちゃ、怪しさしかねぇだろ。
あの時、布越しにチクリと何かが刺さった途端に意識を失った。
今特に何ともないのでそこまで変なものではないだろうが、短時間で注射器と薬剤を用意できたことは見過ごせない。
…穏やかじゃぁねぇなぁ。
さっさとこんなトコ出て早めにルミジナに伝えなければと、動こうとした瞬間。
倉庫のドアがパッと開き、光がスポットライトのようにハナヨイを刺した。
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ハナヨイの目は、闇には強いが光には弱い。
急な光線で目が眩み、視神経の突然の刺激にキリキリと頭が痛んだ。
人が近づいて来る。
その足音を、ハナヨイは良く知っていた。
「全く君という子は。いつでも僕の予想の斜め上を行く」
柔らかく笑みを含むような声の主は。
「…ルミジナ?」
呼びかけに答えるようにニッコリと笑うと、そっとハナヨイの顎を持ち上げる。
ルミジナの瞳を、ここまで近くでしっかりと見たのは初めてだった。虹彩の色も珍しくはあったが、それにも増して特徴的なのは、光が過ぎると見え隠れする十字の光があることだ。
予想外の人物の登場に気圧されたハナヨイは、ルミジナが一歩進むごとに一歩ずつ後ずさる。ついには元いたベッドの上に戻されてしまった。
ドサリと腰掛けた横に、ルミジナが座る。
両手両足を縛られている男にチラリと目をやってから
「少しだけ話をしようか」
いつもと変わらない口調で言った。
ハナヨイは、和菓子屋がニホドリに渡した洋菓子を不自然に感じた。
洋菓子を作るのが初めてだとしても、和菓子屋の大店だ。商品にするつもりならそれなりの品質でなければ面子が立たないだろう。
だがビニールに入っていたのは、形が歪なクッキーと虹色の筋がブレた安っぽいキャンディーだ。しかも、包装に使われているリボンも質が悪くお粗末で、プロの仕事には見えなかった。
一流の客が集まるイベント会場など、新商品の宣伝にはまたとない場所だ。例え試供品であったとしてもあんな物を配っては、利があるどころか笑い物になる。
これは売り物でもただの菓子でもなく、個人的にしかやり取りできない部類の何かじゃないかとピンと来るのは難しくなかった。そして、そういうものは大抵、碌なもんじゃない。
何より引っかかったのは、それが菓子の形をしていて、しかもニホドリに渡されたことだった。ニホドリの年齢層に渡るのなら、年端の行かない子どもたちにもその内渡ってしまうだろう。一座の子どもたちの顔がチラついたハナヨイは、これが何なのか、どうにかして暴かなければならないと思った。
そのためにまずは、ハナヨイ自身や紅葉狩り会場から、この菓子を離す必要がある。だが、ハナヨイの関係者だと分かりきっている一座に渡すのは危険かもしれない。
天啓のようにアサヒを思い出したのはその時だった。
アサヒは一座の仲間以外では数少ない、信用できる大人だ。しかも、どこの何者かをハナヨイは本当に知らなかった。
どれだけ問いただされても話せることは何もない信用できる相手。それは、きな臭いものを渡すのには最適なんじゃないだろうか。
アサヒなら、券を渡せば絶対に次の日に芝居を見に来てくれる。だから今日中に、必ず芝居小屋に顔を出すだろう。
甘味屋では、アサヒはいつも飲み物しか頼んでいなかった。それを知っているハナヨイが菓子を預けるのだ。何かあるのではないかと、きっと思ってもらえるはずだ。
菓子は間違いなく、今日中にアサヒの手に渡る。そうすれば何とかなる。
全て憶測に過ぎないのに、自分でも信じられないほど、曇りなくそう思えた。
だからハナヨイは、菓子を、イベントに雇われている「名前も知らない駕籠かき」に託し、「どこの何者なのか全然知らないアサヒ」に届けるように言付けた。
菓子がアサヒに渡ることに賭け、賽を投げた。
ベッドに座ると気持ちが落ち着いた。
冷静になった頭で、当然のことに思い至る。
…あぁ…そりゃそうだよな…。イオリのボスはルミジナなんだ。こいつが糸引いてる可能性だってもちろんあり得るのによ。
1ミリも疑っていなかった。
ルミジナだから。
景色がポツンと色づいたのは、その時だった。
両親が殺された日、自分の中からポッカリと何かが消えた。
ハナヨイには怖いものが無くなった。何に囲まれても、誰に襲われても、どこに連れて行かれても、何をされても平気になった。
自分から自分が幽体離脱をしているようで、悲しいも悔しいも、嬉しいも楽しいも自分から離れたところにある。
生活には何の不都合もないのに、本能が警鐘を鳴らしていた。
これは大事なものだ。早く元に戻せと。
そうだ確かに今までの自分と何かが違う。
でも何が?どうすれば?
だが今。
こんな時に。
遠くにあったものが、少しずつ、少しずつ、降りて来るのだ。
空白を埋めてゆく。
流れ込み満たす。
手足の隅々に巡り、血液になり体温になる。
“全部がつながった“
ゾクリと悟った時
世界にブワッと色が咲いた。
今までの世界がモノクロに思えるほどに、自分に色が入って来る。
家具の色、カーテンの色、絵画の色。
顔色、声色、感情の色。
力、思い、生命の色。
百花繚乱、千紫万紅、満開に咲き誇り咲きこぼれる。
こういうことか。
こういうことかよ。
クラクラし息苦しくなって、縋るように目の前の男を見た時。
はっきりとその色が見えた。
カチリと、最後のピースが、あるべき所にはまった気がした。
口を開こうとしたハナヨイを、ルミジナが手を上げて制した。
「君から何かを聞くつもりはないし、僕も何も話すつもりはない。言いたいことは1つだ」
シャツの胸ポケットを探り、自分とハナヨイとの間に2本の注射器を置いた。どちらにも何か溶液が入っている。
「こっちは、君を私の思い通りにするための薬が入ってる。君は舞台には戻れないが、私が一生面倒を見よう」
もう一方を指差した。
「こちらはシンプルに、名もなき若衆がこの世から一人消える薬だ
もういい。
知りたいことは知れた。
俺はこの世の全てを許し、全てを受け入れ、全てを信用することができる。
世界には色がある。
きっとこれからも色は咲く。
もう大丈夫だ。
ハナヨイは口を開いた。
「俺を思い通りにする方はこっちでいいのかよ」
注射器を指差す。
「そうだね」
ルミジナが言うのを聞くと、手に取り思い切り床に叩きつけた。
注射器が割れて液体が溢れ、空気を失った絨毯の毛並みがヘタリと萎れる。
「残念だな」
そう言うルミジナの目には、暖かい光さえ宿っていた。
「自分の投げたサイコロぐれぇ自分で拾うよ」
言うとハナヨイは、ルミジナに近い方の袖を捲り上げる。
残った注射器を手に取ると、針のキャップを外した。
注射針を皮膚の下に薄く潜らせるのと同時に、顔を上げる。
「おい、耳の穴かっぽじってよぉく聞け」
ニヤッと笑って続けた。
「俺のこと絶対に忘れんなよ」
押し子を押すと、溶液が体に消える。
俺もお前さんも、おいねぇうんつくだ。
意識が途切れた。
ルミジナは、倒れかかるハナヨイを受け止めた。
転げ落ちた注射器を拾う。
そうして、初めてハナヨイを見た夜中のことを思い出していた。
舞台から、花びらの塊を投げつけられた気がした。
横っ面を張られたように一気に眠気が覚め、劇場付きの役者こそが最高だという貴族社会の偏見は、その瞬間に崩れた。
確かに荒削りだった。繊細さもなければ、洗練されてもいない。
だが気を抜くと負けそうなほどの、圧倒的な強さ。
殺陣の時はもちろんのこと、滑稽なやり取りや色事の場面でさえも、本気で来いと挑んでくる。これは何だと気になり惹かれ、何度も舞台を見ている内に気がついた。
演じる場所さえ見つかるかわからない。場所が見つかったとしても、客の心を掴み続けなければ次はない。旅回りで舞台を続けることは綱渡りだ。それには強さがいる。
だからこの子は、客に言いながら自分にも言っているのだ。
“ 命がけで楽しめ“
それが、今ここにいる事と生きている意味の全てだとでもいうように。
だが同時に、あまりにも必死だった。
燃え盛る炎と共にあるダイヤモンドのようで、美しく輝いていても脆く儚く思え、手を離すことができなかった。
ベッドに横たわらせ布団をかけると、指の背でそっとハナヨイの頬を撫でる。
だがもう、君はきっと大丈夫なのだろう。
その時ちょうど、コンコンとノックの音がした。
「終わったか?」
続いて聞こえた声に向かい、ルミジナは答えた。
「ええ。そちらは?」
「こっちも終わったよ」
ドアを開け、アサヒが入って来た。
「首謀者は地下牢。ここにいた仲間は全部捕まえた。…んで、お前さんの家名は断絶だ」
床に転がる男とベッドのハナヨイを順番に見てから、ルミジナに目をやる。
目が合ったルミジナはアサヒに言った。
「僕が言った通りだったでしょう?」
「だな。お前さんはこいつのこと良く分かってるよ」
一時の無言の後、アサヒが言った。
「…大丈夫なのかよ」
「ああ。これはただ、深く眠る薬です」
ハナヨイが割ってしまった注射器には確かに、言うことを聞くようにもできる薬が入っていた。
手を離さなければならない。そう頭では納得していながらも二種類用意してしまった自分は、つくづく弱くて未練がましい。
こちらを選んだとしたら、僕は果たして止められただろうか。
多分、止めただろう。だが躊躇もしただろう。そして、止めたことを少し後悔もしたかもしれない。
「違うよ。お前さんのことだ。…いやもしかして、お前が全部の絵を描いたのかい?」
アサヒの言葉に、ルミジナはちょっと笑った。
「まさか。僕はただ、カナデを気にかけてくれているあなたが何者かと、カナデがどんな子かを良く知っていた。それだけです。家はいずれ、こうするつもりだった。だから僕は、この子がしたいことをできるようにしました」
そしてカナデはきっと、全てを飲み込んだのだろう。
最後に笑顔を見ながら、そんな気がした。
「残った美術品や家財諸々の処理は申し上げた通りに。それと」
頭を下げ、続けた。
「カナデ…ハナヨイのことを、頼みます」
ぞんざいな所も気が強い所もあるが、曲がったことが嫌いで根が優しい。
ルミジナが培ってきたパトロンの勘が言っている。カナデを支援するに一番良いのは、残念ながら自分じゃないと。
“私情を優先しない“
それは人を支援することで生活してきた家系の、プロとしてのプライドだった。
頭を上げたルミジナは、アサヒの表情を見て思わず笑ってしまった。
「そんなに申し訳なさそうな顔をしなくても大丈夫ですよ。確かに、力を失っていない旧貴族は、あなた方がしようとしている新しい統治体制には邪魔でしょう。そしてこれからもあなた方は、そんな血統を無くしてゆくに違いない。でも」
部屋を一巡り見てから、続ける。
「…ここ、軟禁部屋にしては美しいでしょう?昔は僕と母の部屋だったんです。母は自分が絵を描けて、好きな絵を眺められて、僕と父がいれば幸せな人でした。でも僕はここから出たかったし、将来ここにパートナーを閉じ込めるのも嫌だった」
ルミジナはアサヒに告げた。
「あなた方は僕を解放してくれた。それが、偽らざる気持ちです」
当主の書斎にある暖炉は軟禁部屋への扉だった。
押し開けて書斎に出たルミジナは、グルリと見回し確認すると書斎を出る。
長い廊下を行き、突き当たりを曲がると、1人の人物がいた。
「まさかあなたもいらしていたとは」
微笑んで目をやった。
「1つの血脈を途切れさせるんだ。…責任者として最後まで見届けないとな」
怒りをぶつけたり罵倒したりするつもりはない。ただ感謝している。
だが腕を組んで壁に寄りかかるヴァサラの表情は暗い。
重く呟いた。
「エリゼ=カメリア・ドゥ・ルブラン。お前は、『œil de la vérité(真実の目)』を与える家系能力『le mécénat(後援)』を持つ最後の人間だな」
ルミジナの先祖は、昔、大陸の西にあった「カメリアの泉」の畔に住んでいた。少数民族ではあったが、民族長は代々、ルミジナと呼ばれる特殊能力を持つ。その能力は、真贋を見極める「真実の目」を“与える“能力だ。
カメリアの泉が枯れてしまった後、一族は生きるために街へ出た。狭い場所、少数の顔見知りだけで暮らしていた森の生活では、毒のあるものを見分けるくらいにしか力を使わなかった。だが大きな都市で暮らしだした時、物の真価や本物の才能、人の嘘まで見抜けるものだとわかったのだ。
民族長は一族を養うため、最初は古物商を始めた。その内、芸術家や会社などの支援にも能力を使うようになると徐々に力をつけ、やがて貴族位をもらうに至ったのだった。
「はい。おっしゃる通り、家系能力を持つ最後の人間です」
「別に国まで出なくても良いんだぞ。お前には母親譲りの絵の才能があるし、その才だけを生かして働く道もある。お前さえ良ければ、似顔絵捜査員として軍に雇うこともできるしな」
ヴァサラは、何度もした提案を再びルミジナに向けた。
「…この能力の厄介さを、あなたならお分かりのはずです。僕は、僕のことなど誰も知らない場所に行く方が良い。…とは言ってもまあ、『気ままな旅』というやつですし、ちょっと楽しみです。昔から読んでいた冒険譚や旅行記がやっと役に立ちますしね」
ルミジナはそう言うと、冗談めかしてウインクをする。
「あなたが鎖国を解いてくれた国で、人生で初めて自由になった。これは思い切り満喫しなければ勿体無いでしょう?」
ヴァサラはため息をついた。
「やはり決心は変わらないか」
それから、続けた。
「世界を旅していたのがついこの間のような気がするな。世界は広かった。大変なこともあったが、面白い経験の方が多かった。お前も楽しめ」
言い終わるとルミジナに目をやり、フッと笑う。
「俺はもう帰る。後のことはアサヒに任せてあるが、あいつもしばらくは忙しいだろう」
建物の出口へと踵を返しながら背中越しに言った。
「だからお前はゆっくり、ここを出る準備をすればいい」
その真意を理解したルミジナは、廊下を遠くなってゆく後ろ姿に深く頭を下げる。
「…ありがとうございました」