ヴァサラ幕間記11
3 青年ヴァサラと天狗の事情
商店街の店先で、土産物に刻んである文字を見てヴァサラは呟いた。
「どこだよここ…」
そりゃあ途中ちょっと遠いかなくらいは思っていた。だがまさか。湖に沿って歩いている内に別の国に着いているとは。
とにかく国名を確かめようと荷物を肩から下ろしかけた時、突然腕を引っ張られた。
「お前こんな所に!何やってんだよ!」
いやお前誰だよと思うが、抵抗できないほどの馬鹿力だ。諦めたヴァサラは引っぱられるのに身を任せながら商店街の様子を観察することにした。
街全体が様々な青色で塗られており、階段には装飾タイル、壁には民族柄が鮮やかな布製品が吊るされている。商店街は店が左右にズラッと並び、そこを貫く歩道にはあたかも屋根のように木が枝を伸ばしていた。小綺麗な地方小都市という感じだ。
引きずり入れられたのは城塞に囲まれている集落で、こちらは一転して、土色一色に南国風の木々だけが彩りというシンプルで実用的な居住地だった。
「大通りで待つなって言っただろ。知り合いがいなくてラッキーだったよ」
言うと青年は被っていたフードを脱ぐ。毛量が多い強い癖毛と少しキツくも見える目が印象的な青年だ。そのままフード付きマントを脱ぐと、何と黒い羽が現れた。
「お前羽あんの?いいなあ」
ヴァサラの言葉に、え?これ?と言うように自分の羽を見た青年は
「俺天狗だし。まあ風切り羽切ってるから飛べないけどね」
サラリと言ってから、
「じゃ行くぞ。ここからは知り合いばっかだからな。ホント気をつけろよ」
とこちらの事情は全く聞かずに先導しだした。
四角形の積み木を重ねたような住居は勾配がきつい土地に張り付くように作られていた。迷路状で曲がり角が多い集落だが家々の屋根が繋がっていて、急ぐ時はそこを行くらしい。男が話すことを何となく聞き流している内に、事情が少し掴めて来た。
ここの女性は遊びはもちろん仕事でも外に出ない慣習で、何もせず家にいることが女性の一番のステイタスである。だがこの男が雇われている家の娘は働きたがっており、常々家出を計画していた。それを手伝うために男は屋敷に来ていた旅商人と手筈を整え、今日その娘を連れ出す算段である。と。
ただの旅商人がこの速さに付いていけると思ってんのかよ。
常人の動体視力では捉えることも難しいであろう速さで急勾配を駆け上がる天狗の後ろを行きながら、もう屋根で行けば良かったんじゃないかと思っている。そしてヴァサラには、自分が旅商人ではないこと以上に引っかかることがあった。
高台にある屋敷に着くと、男は家の周りを巡った。お香の香りが漂う窓の下で「ここだ」としゃがむ。
「お嬢様が来たら合図があるから。それまでここで待機だな」
わっかんねえなあ…
本当に理解できず、思わずヴァサラは言ってしまった。
「お前それでいいのか?」
弾かれたようにこっちを向いた男に、ヴァサラは確信を込めて繰り返す。
「そんなに好きなお嬢様を、俺に連れて行かせていいのか?」
こいつの気持ちが息もできないほど胸を絞って来るのだ。
お前死ぬほど辛いんじゃないのかと、ずっと思っていた。
防ぐ間も無く、後頭部から背中にかけて強い衝撃が打つ。掴まれた胸ぐらと押し付けられた壁に圧迫され、一瞬息がつまった。
「俺は妖怪で使用人なんだよ。どうにもなんねーだろ」
無理やり気持ちを抑え込んでいるから冷たく響く。そんな低い声だった。
肺を内側から焦がすものがある。グルグルと膨張し大きくなってゆく。男から伝わるそれを吐き出すように息をつき、やっぱりヴァサラは思う。こいつの気持ちはわかる。言ってることも理解できる。だけど全然わからない。
だから何なんだろうか。妖怪で使用人だったら何でどうにもならないんだろうか。お嬢様と二度と会えないのが死ぬことと同じなら、いらないと言われるまではどういう形でも一緒にいる方法を考える方が余程マシじゃないのか。
大事な人が生きたまま遠くにいるのは、死んで側にいない事とは全然違う。そのことが今、ヴァサラには痛切に分かる。
母親や死んでいった仲間たちはこの世界のどこにでもいる。けれど自分が置き残して来たものとは、時間と距離が離れれば離れるほど遠くなる。
覚束ない繋がりを確認するためには証拠を必死でかき集めなければならないのに、その証拠といえば、前は持っていたのに今は手に入れられない物だけだ。
交わした会話や思い出とか、そんな消えてゆくばかりの手に取れないものを命綱に、それでもどこにでも立っていられるのは、自分はいつかあそこに帰ると思っているからに他ならない。
その時、寄りかかっている壁を隔てた向こう側に待っている人物が来た。
そして、ヴァサラはわかったのだ。
「お嬢様は、お前と逃げると思ってるぞ」
男は殴られたようにこっちを見た。胸元を掴んでいた手から力が抜ける。
「…そんなこと…」
呆然と呟くと、固まって動かない。
「そうだからそうなんだよ!」
語気を強めたヴァサラは壁から身を起こすと、男の両肩を掴んで前後に揺すった。
「しっかりしろバカ!お前なら飛んで逃げれんだろ」
そうだ。逃げればいいのだ。
どうせ家出するお嬢様なら、一緒に逃げて、お前がずっと守ればいい。
微かに頷いた男はゆらりと立ち上がる。
頭上の窓に目をやると、中にいる人物を見てからヴァサラを見下ろした。
「旅商人」
深呼吸をして、呟くように言う。
「俺は飛べるかな」
呆れてため息をついたヴァサラは男を見上げて言った。
「当たり前だよ。お前、天狗だろ?」
その言葉に、今度はしっかりと頷き、天狗はふっと微笑んだ
羽が一枚一枚ゆっくりと、縦に横に広がってゆく。閉じていたのを開いているはずなのに、新たな羽がどんどん生えていくようだ。羽は少しずつヴァサラの頭上を覆い、最後には完璧な陰を作った。
ひと羽ばたき
周りの木々が揺れ、土が巻き上がる。
思わず目を瞑った瞬間、まぶたの向こうが一気に明るくなった。
砂埃から目を庇いながら見上げると、屋根に女性のシルエットがある。彼女を掠めるように抱き取った天狗は大きな羽音をさせ、上空を一閃した。
あんなにも立派な羽だったのか。
誰も追えない高さを飛ぶ天狗の羽は自身の身長より大きいくらいだ。
それを見送りながらヴァサラは呟く。
「やっぱ羽いいよなあ」
あの高さから見れば、自分の来た道も行く方向も、図鑑で見た地上にある馬鹿でかい絵でさえも、きっと隅々まで良く見えるに違いないのだから。
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