moonlit night dream2
kugai
…初顔だな。
九垓(クガイ)は暖簾をくぐって入って来た、店にはそぐわない風体の男を見た。ここは地球にある日本という国のコンセプトバーで、飲み屋という通称で呼ばれている。
カウンターの向こうの調理師は着物を着ていて、壁にかけてある札にはこの店で出す料理名が筆書きで書いてある。酒の名前は日本酒と言った。
九垓がこの店によく来るのは、日本酒が好きなのと、何も頼んでいなくても突き出しといってちょっとした酒のつまみが出るのが楽だからだ。
酒好きの九垓はもちろん酒を飲みに来ているのだが、それなりに空腹でもあるので食べ物は何か欲しい。その時にメニューを見て何か選び注文し、それが来るまで待つというのは正直めんどくさい。
今入ってきた男は、褐色肌に青緑の瞳だった。青みがかった癖のある黒髪で、白いTシャツにジーンズを履いている。それだけでも飲み屋よりバーが似合いそうなのに、更に、首にはロザリオをかけていた。
入る店を間違えたのかと何となく気にして見ていたが、そのまま少し離れたカウンター席に座るのでそうではないらしい。だがメニューを手に取り複雑な表情をしているので、店自体は初めてらしかった。この店に初めて来たとなるとどの酒が何かもわからないし、料理名からはどんな料理が出るのか想像がつき辛いだろう。
どうにか何か頼んだらしく、机の上には突き出しの蟹味噌と日本酒、煮物のようなものが並んでいる。恐る恐る蟹味噌を口に入れて微妙な顔をし、同じように食べた煮物にはちょっと明るい表情になっている。だが徳利から猪口に日本酒を入れるのが絶望的に下手で、入った量と同量くらい溢れさせていた。
九垓と同じくらいの背丈でガタイが良い割に風貌は優しげだ。けれどどこか剣呑な雰囲気がある。はっきり言うと、たくさん人を殺して来た気配がしていた。
今は非正規雇用の警備員をしている九垓だが元は国を守る仕事をしていたのだから、そう感じるなら気のせいではない。風貌と雰囲気のギャップがありすぎて、できれば近づきたくはない。
けれど。
不器用か!
思わず声にせずツッコんでしまう。
一回ならともかく、酒を注ぐたびに猪口から同量以上こぼすのを繰り返している。
もうお前はそれに向いてないからやめとけと言いたい。とにかく酒が勿体無い。
「お前よお」
ついに九垓は声をかけてしまった。
「俺がそれ注ぐから、ちょっとこっち来い」
自分でも、なんで知り合いでも何でもない上に怪しいこの男に酒を注いでやらなければならないのかとは思う。でもこぼし続けるのを見る方がストレスだ。
「ありがとうございます」
とこちらを見た時、男はほんの一瞬動きを止めた。何か、九垓を見ながらその遠く向こうの別の人間を見ているような、そういう視線だった。
「練習すると上手くなるかと思ったんですが、なかなか難しいですね」
「普通そんなに難しくねえんだよ」
徳利から猪口に酒を注ぐ。ちょうどいい量にこぼれもせず入るのを見て、男は感心して言った。
「慣れですかね」
「お前が不器用すぎんじゃねえか?」
ああ確かに、と笑うのを見て、まあ悪いやつじゃないなというのは分かった。少なくとも、趣味で人を殺しているような人間ではなさそうだ。
自分で注いで欲しいぐらい飲むペースが早く、焼酎のストレートも水のように飲んでいる。取り止めのない話を聞く側に回っていたせいか、気づくと、つられてこちらの酒量も多くなっていた。
だからだろうか。
男がまた、自分を通してその向こうにいる人間を見ている視線になり、その視線に引き寄せられるようにキスをして来た時に、特に抵抗感はなかった。どこか他の都市から来たような男のその場所の習慣で、気に入った相手とはそうするのかなと思ったぐらいのことだ。あるいはその抵抗のなさは、唇を離した男の表情がふわりと嬉しげだったのもあるかもしれない。
「すいません」
しかしその表情が一変して謝ると、机に多すぎるほどのお金を置いて慌てて椅子から降りる。その金はもらって払うわけにはいかない金額で、置かれた紙幣をそのまま掴むと男の後を追いかけた。
「見つけたよ」と男の声がする。
そっちを見ると、どこにいたのか梟と狼と共に、男が路地の角を曲がるところだった。追いかけてそこまで行くと、しかし男は1人だ。
驚いて振り返る男の腕を引き、紙幣をその手に押し付けながら言った。
「どういう意味だよ」
男の顔色が変わる。
「意味はありません。本当に申し訳ない。傷つけたり気に障ったのなら、このまま警察に突き出してくれても構いません」
自分もなぜそんな聞き方をしたのかわからなかった。さっきまで挨拶だと思っていたはずなのに。金を返そうと追いかけて来ただけなのに。けれど、男の表情と返答は逆に、ただの挨拶ではないことも示していた。
それならそれでいいなと九垓は思ったのだ。一晩だけで終わってもその先に続いても、キスから始まる行為が行き着くところまで行ってもいいなと。
あの時の嬉しそうな表情にはそれだけの価値があると思えた。
引き寄せて唇を重ねた時、男は抵抗しなかった。
最初ついばむようにキスをしたが、受け入れるようなので少し上向かせて深く唇を合わせる。舌を絡めとると応えて来たので、何度か唇を外し口づけの方向を変えながら口腔内を隈なく探った。
長いキスが終わり唇を離すと男は膝から崩れそうになった。それを支えて壁に寄り掛からせると、男は手を伸ばし、九垓の右顔に厚くかかっている髪を掻き上げる。
「ごめん、クガイ」
男は確かにそう言った。
「生きてて良かったよ」
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