「生きる希望の話ですから」
最近暴食欲求が収まりません。野花紅葉です。
今年に入ってから初めて「満腹感が不快」という感覚に出会い、「満腹感が幸せの証明」くらいに思ってた今までのわたしからは考えられないような感覚の変化に自分で戸惑っていました。今でもその感覚は続いているものの、ふとした時に「やばい!食べたい!アホな量を!」となり、深夜のコンビニに走るようなことが最近は増えています。なぜでしょう、体が生きようとしているんでしょうか。
好きなアーティストのライブがあるからそれまで生きられるとか、週末デートだからそれまで生きられるとか、そんなことをよく聞きます。その感覚は自分にもいくらかは理解できるのですが、「生きる希望」とまで思えたような経験は、心当たりがありません。
わたしはどちらかと言えば「死ぬ絶望」によって生きながらえてきたタイプで、ていうかなんかさっきから言葉が大仰過ぎますが中身はもっとミニマムで、さっきの例で言えば、好きなアーティストのライブがあるからそれまでは死ねない、というような思考です。結果だけ見れば同じですが、「生きられるのだ」と「死ねないのだ」では、感覚的にはとても大きな違いです。
「生きる希望の話ですから」
もしわたしがこの言葉を使うことがあるとすれば、「死ぬ絶望」を思い起こさせてくれた対象に対して語弊のないように使うのだと思います。「あなたのおかげで生きる希望が持てました」と言いながら、「あなたのおかげで死ぬ絶望に思いが至りました」と思っている。さらに、不誠実なことを言うなら、もうなんか適当なリップサービスくらいでしか使わないだろうなと、それくらいわたし個人にはなんだか縁遠い言葉です。さて、登場人物はどのように使うのでしょうね。
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