【小説】 母の言葉
茜の母親は変わっていた。ずっと家に居て、ご近所には顔を出さない。必然的にご近所付き合いもなく、その存在感を消していると言っても過言ではなかった。
しかしそんな母は茜のことを溺愛し、家で茜が帰るのを首を長くして待っていた。そして茜が帰ってくると、茜の良き相談相手になるのだった。
茜も母のことが大好きで、外で嫌なことがあると家に帰ってすぐ、母に打ち明けたものだ。大急ぎで手を洗い、おやつと飲み物を準備して、テレビ前のソファで母と話すのが、何よりも茜の心安らぐ時間だった。
茜が幼稚園でお友達と喧嘩をしたとき、母は、
「たくさん泣いたらええのよ。たくさん泣いて、どうしたらいいか、ゆっくり考えてみたらええよ。えらかったね」
と慰めた。
「もう幼稚園行きたくない。お母さんと一緒におりたい」
茜は駄々をこねては母を困らせるのだった。
ピアノの習い事の先生に怒られたとき、母は
「出来んくてもええのよ。茜ちゃんが楽しいなって思うことが一番なんやから。その気持ちをいちばん、大切にするのよ」
と励ました。
「だけどあの先生、ほんとに怖いんやもん。茜、違う先生がいいなあ」
「僕もあの先生、怖いと思うわ」
隣で本を読んでいた父親が、すかさず口を挟む。
「違う先生に変えてって頼んでみよか」
「賛成!」
母は、そんな2人を笑顔で見つめていた。
茜が進路に迷ったとき、母は
「どこかに正解があると思わんことよ。茜ちゃんが正解やと思った道が、正解なんよ」
と諭した。
思春期の茜は、
「お母さんには分からんよ、茜の気持ちは」
とふてくされた。
茜が彼氏に振られて落ち込んだとき、母は
「茜ちゃんは誰よりも可愛くて魅力のある子よ。その魅力の分かる人を探せばええのよ」
と憤慨し、力説した。
「そんな人現れんかったら、どないしよう」
そう言って茜は、八つ当たりのように山盛りのお菓子を食べた。
茜は、母に励まし慰められるたびに、クッションに顔を埋め、「もういっかい言って」と、何度も母の言葉を求めた。母は辛抱強く、そのたびに何度も茜に言葉をかけ続けた。
茜は、自分が要求したくせに、
「お母さんは同じことしか言わへんやん」
と文句を言うのだった。
すると母は「大事なことよ」と悪気のない顔で言い、繰り返し繰り返しその「大事なこと」を茜に話すのだった。
茜は、その言葉たちを一つ残らず自分の胸にしまい、少しずつ大きくなっていった。そうして茜は、自分を愛し、自分を大切にする大人の女性になったのだった。
*
「茜ちゃん。結婚、おめでとう」
それは茜の結婚式だった。
会場の大きなスクリーンに、いつもと変わらず若い茜の母が映し出されている。
「私がそこに居られたらどんなに嬉しいかと思うけれど、こればっかりは仕方がないですね」
母は弱々しげに笑った。
「これは、何本目のムービーかしら。ねえあなた。これ何本目かしら」
そう言って、カメラを回しているのであろう茜の父親に笑いかける。
「茜ちゃん、どうか幸せでね。あの日この腕に抱いた小さいあなたは、頼りなくて、清潔で、愛おしくて、これが神からの贈り物かと実感する日々でした」
母はそこで少し、涙を拭った。
「あなたが私に向かって笑いかけるたび、私はあなたからたくさんの愛をもらいました。あなたの中にも、少しでもお母さんの愛が結晶しますように。そう思って、いま、たくさんのビデオメッセージを作っています」
ビデオを回している父親の手が入り込み、母にハンカチを差し出す。
「あなたは覚えていないかも知れないけれど、あなたには、あなたを深く深く愛した母親が、間違いなく存在したこと、どうか忘れないでいてください。未練がましい母親でごめんね。どうかどうか、幸せになって。おめでとう」
「忘れられへんよ。ムービー、1300本もあったんやから」
そう言って涙を流す新婦に、新郎がハンカチを差し出した。
(完)
今回は、石と言葉のひかむろ賞への参加作品です。
そうです、だからふざけてないのです。
良い機会をありがとうございました。
もし12月をするなら、トルコ石じゃなくてラピスラズリがいいです。12月だって、キラキラしたい(切実)。