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【小説】 俺は、男らしく

  俺は、医者として大学病院の救急で働く親父を、心の底から尊敬していた。たとえ休日であっても、電話一本で病院にかけつける。そんな親父が電話口で話す専門用語が、とてつもなくかっこよかった。
 親父にテストの結果を褒められたりした日には、将来はきっと親父のような立派な医者になるんだ、と決意を新たにしたものだ。

 いつも疲れた様子で無口な親父だったが、折に触れて俺に勉強を教えてくれていた。親父は教えるのが上手くて、そして俺は親父に教わるのが大好きだった。
 尊敬していた。
 三年前、俺が中学二年生だったあの日までは。

 秋めいたある日の深夜。俺は、中二の二学期中間試験に向けての勉強が深夜に及んでいた。寝る前に麦茶の一杯でも飲もうとリビングに向かうと、何やら騒がしい。ドアについたガラスからそっと中を覗き見る。

「マサちゃん、かわいい〜!」
 母さんが黄色い声を上げていた。俺と違って母さんはいつだって陽気な人であったが、いくらなんでも深夜1時にこのテンションは常軌を逸している。

 そう思いながら母さんの視線をたどると、そこには女装をした親父が居た。フサフサのまつげで金色のウィッグをかぶり、ノースリーブロング丈のワンピースを着て、ごつごつした体でしなを作ってポージングを決めている。
 はじめ、俺にはそれが誰だか分からなかった。生まれて初めて見る、親父の姿。化粧をし別人のようになってはいるが、間違いなくそれは親父。常軌を逸しているという言葉では済まないその衝撃に、俺の中の親父への憧れがガラガラと崩れ落ちていくのが分かった。

「あれ、優くん?どうしたの」
 母さんがやっと、こちらに気づいてドアを開ける。
「やだー、見られちゃった」
 母越しの親父が、恥ずかしそうにぶりっ子しているのが見える。
 俺は絶句し、突っ立っていることしかできなかった。
 見られちゃった?いま、本当に、親父が、そんなことを言ったのか?
「優くんも、一緒に盛り上げ隊やる?」
 母さんがおいでおいでと手招きをする。
「は…?」
 俺の口からは、乾いた笑いしか出てこない。
「だから、優くんもお父さんのこと、盛り上げてよ」
 なんで、俺が、そんなことしなくちゃならない。
「えー、嬉しーい。マサ、今日はもう一着着ようかなあ」
 親父がミニスカポリスのような服を持って、胸の前でヒラヒラさせた。
 俺は部屋を見渡した。いつもの親父は、どこへ行った。この、よく喋る、ケバいオッサンは誰だ。
「サービスだよっ」
 ウインクする親父にそう言われた瞬間、俺の中で何かが弾けた。

「ふざっっっけんなよ!!」

 リビングの空気が、一瞬で張りつめる。
「何がサービスだ!恥ずかしくねえのかよ!なあ、親父!男だろ!?何やってんだよ!しっかりしろよ!なんのつもりだよ!」

 親父は、フサフサのまつ毛を携えた瞳で、ゆっくりと瞬きをした。怒っているのか、悲しんでいるのかは分からない。ただじっと俺を見ていた。
「どうして?優くんはマサのこと、恥ずかしいの」
「は。恥ずかしいに決まってんだろ。見損なったわ」
 一瞬、親父の瞬きが速くなったかと思うと、目尻からボロボロと涙が出てきた。目の周りの化粧と混ざった、黒い涙。見ていられなかった。

「優くん。マサちゃん…じゃなくってお父さんは、いつもお仕事ですごく頑張ってるのよ。こうして家でリフレッシュするくらい、いいじゃない。誰にも迷惑掛けてないじゃない」
 母さんが親父をかばう。
「うわーん。聖子さーん」
 親父が母さんに泣きついた。

 目を疑う、とはまさにこのことだった。それまで、親父のことは立派な人だと思っていた。大病院で医師として働き、酒もタバコもせず、どれだけ仕事が遅くなっても、絶対家に直帰する。頭脳明晰で頼りがいのある、無口で懐の大きな一家の大黒柱。あれは嘘だったのか。これが、このオカマみたいなオッサンが、親父の本当の姿だったのか。

「尊敬してたのに」

 その日から俺は、親父と口をきくどころか目を合わせることもなくなった。

 それでも、親父の女装ファッションショーはなくならず、あれから今に至るまで、俺の寝ている隙、俺の学校に行っている隙を狙っては母さんと二人で開催しているようだった。

 高校からの帰り道。
 駅へ向かう道は、今日も人通りが多かった。
「ねえ、そろそろ受験校とか、真剣に考えないとだね」
「だな。医学部は受験科目が多いからな」

 三ヶ月前から付き合っている彼女、恵美もまた、医学部の志望だった。
「高二のこの夏が勝負、って先生も言ってたしね」
「ついこないだ高校に入ったばっかなのにな、俺たち」
「進学校だからね。そういや去年も言ってたよね。今年の夏が勝負、って」
「ずっと勝負させられてる、こっちの身にもなってほしいわ」
「ほんとだよ。あ、そうだ、今日返ってきた模試の結果どうだった?」
「あー。あんまり良くなかった」
「あたしも。第一志望C判定だった」
 確か、恵美と俺は同じ大学の学部を第一志望に書いたはず。
「優くんは?」
「んーどうだったかな。忘れた」
 本当はD判定だった。
「優くんってさ、いつもそうやって私に成績教えてくれないよね」
「いや、別にそういうわけじゃないけど」
 成績は、いつも恵美の方が上だった。
「恵美とは競いたくないっていうか」
「もちろん、競ってなんかないよ。一緒に合格しようって言ったじゃん」
「うん」
 俺は押し黙った。不甲斐ない。恵美より良い成績を取れない自分が、男として、彼氏として、情けない。

 二人の間に、しばしの沈黙があった。
「…競ってんのは、優くんの方なんじゃないの」
「競ってないよ」
 恵美が足を止める。
「競ってんじゃん。なにカッコつけてんの?逆にダサいんだけど」
 そう言って、くるりと踵を返して歩き去ろうとする。
「どこ行くの」
「私、喫茶店で勉強して帰るから。ひとりで」
 噛み付くような言葉と怒りを宿した視線を僕によこして、恵美は人混みへと消えていった。

「…はー。めんどくせえな。女と付き合うって。訳わかんねえよ」

 恵美に告白されて交際をスタートしてからの一ヶ月、俺は良い彼氏でいようと努力した。恵美の悩みは積極的に聞いたし、歩道は道路と反対側を譲ったし、手を繋ぐのだって俺がリードした。なのに、なぜかどんどん噛み合わなくなって、些細なことで恵美が怒り出すことが増えた。今日みたいに。

 彼氏の方が成績悪いとか、かっこ悪いじゃん。男としてのプライド、ってもんがあんだろ。何で分かんないわけ。
 競ってるとかじゃなくてさ。恵美は、俺の情けない姿を見てどうしたいの。がっかりして終わり、じゃん。気まずいだけじゃん。

キキ―ッ!ドンッ!

 ひとり悶々としながら横断歩道を渡っていたら、横から車が突っ込んできた。どうやら俺は赤信号の横断歩道を渡っていたらしい。車に吹き飛ばされ、白い曇り空が眼前に広がって、すぐに俺の意識は失くなった。

 夢をみた。

「おい!しっかりしろ!優!」
 遠くから親父の声が聞こえて、何とか俺は薄目を開ける。
 親父だ。親父がいる。その顔はファンデーションで白かった。つけまつげが取れてブランブランしている。
「神崎先生、落ち着いて。奇跡的に当たりどころが良かったみたいです」
 どうやら親父の勤務先の病院のようだ。
「優!…優!」
 取り乱す親父の声を聴きながら、ああ、そうか今日は親父の非番の日か、それで昼間っから女装ファッションショーをしてたのか、なんてことを考えていた。
 まずいだろ、そんな格好で職場に出てきちゃ。

「CTは撮ったのか?頭も、内臓も?」
「大丈夫です」
「見せてくれ」
 そう言って親父は、俺のそばから立ち去った。衣装はミニスカポリスだった。すね毛はきれいに処理されていた。

 ああ、よかった。
 父さんが助けてくれるなら安心だ。
 やっぱかっこいいな、俺の父さん。

 俺は再び、真っ暗な意識の海にちゃぷんと潜った。

―ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、…

 はっきり目が覚めたのは、電子音のひびく静かな病室だった。
「う…」
 体中のあちこちが痛い。朦朧とする頭で、何が起こったのかを思い出した。
 そうだ、俺、車にはねられたんだった。ふと横を見ると、サイドテーブルの上にボロボロになったスマホが置かれていた。ホームボタンを押す。奇跡的に生きていた。

 午前六時。
 とすると、窓から差し込むあの光は、朝焼けか。窓際の椅子でうつらうつらと舟を漕ぎ眠っている親父が、ミニスカポリスを着たままだ。スカートの下に、誰に借りたのかスウェットパンツを履いていた。

 馬鹿みたいだな、と思った。
 俺のしがみついていた「男らしさ」が、馬鹿みたいだ。
 親父はかっこいい。今も。

「あっ…起きたのか」
 椅子からずり落ちて目を覚ました親父が、俺に気づく。
「うん。起きた」
「起きたか…そうか」
 そう言って親父は目頭をおさえた。
「…ごめん。心配かけて」
「全然…ぜんぜん、冷静でいられなかったよ。いつも救急の現場に立ってるはずなのに。お前の青ざめた顔を見たら、もう、どうしたらいいか分からなくなって。看護師にも呆れられた」
 親父の目の周りは、崩れた化粧でパンダのように真っ黒だった。

「でも…」
「ん?」
「でも、かっこよかったよ。さっきの親父。神崎先生」
「お前、意識があったのか」
「ほんの一瞬だけね。すごくぼやけてる。ただ、親父が助けてくれるから大丈夫だって思ったの、それだけ覚えてんの。あと、取れかけのつけまつげと」
 親父が、あっ、と気まずそうな顔でまぶたを触る。もうつけまつげはそこにはなかった。

「…母さんが今、荷物取りに帰ってるから。化粧落としも持ってきてくれるはずだから。来たら化粧、落とさないとな」
「…落とさないでさ、直したら?」
「直す?」
「化粧。直して、ファッションショーしたらいいじゃん。個室だからさ、誰にも迷惑かからないよ」
 俺の言葉に親父が固まった。そしてそのまま、また目頭を押さえた。
「…そうだな。いや」
 親父が目の周りの黒い化粧をぬぐって笑う。
「そうね。そうするわ」

 母の到着を待つ間、俺はズタボロのスマホで恵美にメールを打った。
『今日はごめん。俺はD判定だった』
 送信を押す手が、微かに震えた。


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!