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【小説】 井口とキスする夢

 私に好きな人はいない。
 私がこの世で愛しているのは、世界でただ一人、松坂桃李だけ。
 なのに。
 なのに。
 キスしてた。井口と、夢の中で。

「藍子、ご飯できてるよお」
 1階からお母さんの声がする。でも、私はしばらく呆然とし続けた。
 さっきの夢は何だったんだ。

 いやに生々しかった。
 いつも学校で悪態をつきあい、罵り合っている井口と、キスしていた。
 いつもの学校で。
 井口が、見たことのない、真剣な顔で、私の目を見つめて。

 熱い。胸から顔に、熱がせり上がってくる。
 何だったんだ、あの顔は。
 深呼吸してみても、顔が熱い。
 井口の、あの熱っぽい眼差しが目に焼き付いて離れなかった。
 その視線を思い出して、息が止まりそうだった。
 夢の中でも私は、ライオンに射竦められたインパラのように、身動きもできないまま、井口に捕獲された。

 井口って、キスするとき、あんな顔するんだ。
 井口って、男なんだ。
 あんなに冴えないやつなのに。
 童貞感マックスなのに。
 悔しい。

 学校に着いても、私の足は地面に着かなかった。
 どうして、井口のことばっかり考えてしまうんだろう。

 昔の日本人は、相手が夢で自分に会いに来てくれた、と考えていたそうだ。古文の先生が言っていた。だとすると、井口が私に会いに来たのだろうか。井口の想いが高じて…?

 いや、冷静に考えたらそんなことはあり得ない。いくら夢見る少女の私でも分かる。非科学的だ。
 …じゃあ、なにか?
 私が井口への想いを募らせたがゆえに、見た夢だとでも?

 そんな考えで頭をパンパンにしていたら、休み時間に井口に声を掛けられた。
「河合、さっきの授業中、ぼーっとしとったやろ」
「は?そんなことないし。ていうか、井口に言われたくないわ」
 しどろもどろになって、早々にトイレに逃げる私。
 どうしよう。バレている気がする。
 井口に気付かれてる気がする。今日私が井口とキスする夢を見たって、もうバレてるんじゃないだろうか。いやむしろ、クラスのみんなにバレてるかも知れない。ああ。バレてたらどうしよう。恥ずかしい。

 トイレで鏡を覗き込む。顔がいつもより赤い気がする。しまった、眉毛を抜き損ねてる。人気者グループのハルちゃんみたいに、パッチリ二重だったら良かったのに。鼻ももっと高かったらなあ。
 急に、自分の顔が嫌になってきた。

「藍子、おはよー」
 そこへ、当のハルちゃんがやってくる。今日もパッチリ、くりくりのお目目だ。
「さっき、井口が藍子のこと心配してたよ。いつもの元気がないから、あいつ病気なんじゃないかって」
「違うよ。松坂桃李のこと考えてただけ。井口なんか関係ないし」
 焦って、聞かれてもいないことを答えてしまった。
 バタン。互いに個室に入りながら、会話を続ける。
「井口ってさ、優しいよね。結婚したら幸せになれるタイプ」
「えっ、いやー。そう、かなあ」
 個室の中の私は、結婚の2文字にひどく動揺した。動揺のあまりお小水が止まりそうだった。
 ジャー、バタン。
 個室から帰還した私たちは、洗面台に並んで手を洗う。
「藍子って、井口のこと好き?」
「えっ、いや、ないない。ないないない」
「えー、じゃあ、あたし狙っちゃおうかなあ」
「えっ」
「う、そ。うそだよもう。何ムキになっちゃってんの」
 ぽん、と私の肩を叩いて、ハルちゃんがトイレから出ていった。
 私は、指で瞼を上に引っ張って、無理やり大きくした目で鏡を覗き込んだ。

 *

 昼休み、井口はいつもどおり、男同士でぎゃあぎゃあ騒いでいた。
 おい、お前ゲームで負けただろ、キス顔しろよ、なんて言われてキス顔を晒す井口。ぎゃははと笑う一同。

「違うんだよなあ」
 見ながら私は思わず、声に出てしまった。
「ん?どしたの藍子」
 慌てて、いや何でもない、と頭を振る。
 違うのだ。井口のキス顔はそんなんじゃない。あんな面白い顔じゃないんだよ。もっと、真剣で、熱っぽくて、もっとこう…。そこまで考えて、ドキッとした。ぐらぐらする。息が苦しい。私はもしかして、井口のことが好き?

 松坂桃李のことを考えてた時とは違う、息苦しさだった。桃李の時は、ただただ、胸が苦しいだけだった。幸せな息苦しさ。
 だけど、井口への息苦しさは、怖さがある。怖い。何かが本当になる、怖さ。圧迫感。なまなましくて、怖い。

 誰かに打ち明けたかった。
 今日見た夢のこと、そしてこの気持ちを誰かに話して、水のように流してしまいたい。
 だけど友だちには言えなかった。なまなましい恋の話など、まだ私は友だちに話したことがなかった。
「ねえ藍子、聞いてる?どしたの、今日。ずっと心ここにあらずって感じだよ」
「う、うん。実はさ、今日、松坂桃李とキスする夢を見ちゃって」
 きゃーっと、女子同士の会話が弾ける。それから藍子は、雄弁に松坂桃李とのキスを語った。松坂桃李になら、何の怖さも感じず恋が出来るのだった。

 昼休み終了のベルが鳴り、皆が、がやがやと授業の準備を始めたとき。
 ぐいっ。
 誰かに肩を押された、と思ったら、井口だった。
 わざと私の肩にぶつかって、何も言わずスタスタと歩き去っていったのだ。それは、井口の常套手段だった。いつも、ああやってわざとぶつかってきて、喧嘩をしかけてくる。
 いつもなら、ちょっと!と言って私も負けじと突進し、10倍返しをお見舞いするのだけど、今日は出来なかった。胸が痛くって、ただ、ぼーっと井口の背中を眺めていた。

 放課後、私は長引く息苦しさのあまり吐きそうになっていた。
 朝から丸一日、この息苦しさを抱えていたもんだから仕方ない。もしかしてこれが、いつもお母さんの嘆いている更年期というやつなのだろうか。あんな変な夢を見て、私まで更年期になってしまったのだろうか。
 トイレでゆっくりクールダウンをし、教室に戻る。皆、部活や下校で教室には人影がなかった。 

「おいこら、河合」
 扉の影に、井口がいた。誰もいないと思っていた私は、驚きのあまりお小水を漏らしそうになった。
「…井口か。何してんの、そんなとこで」
「河合、今日何やねん。急にしおらしなって。熱でもあんのか」
「ないけど」
「また、桃李が〜、か?キスしたとかいって騒いどったな」
 煽っているのか、井口の声は若干の怒気をはらんでいた。
「聞いてたん」
「聞こえるわ、あんな大声。ええ加減、松坂桃李とか諦めろや。しょーもない」
 これに、私はカチンときた。
「しょうもなくないわ!井口より数百倍、ええ男やから!」
 カチンときたとはいえ、私は、売り言葉に買い言葉が脊髄反射で出てしまうこの性格を呪った。数百倍は言い過ぎだ。正確には十倍くらいだろう。
「そんなん分からんやろ!」
「分かる!井口と違って、桃李はもっと優しくキスしてくれるし!」
 言ってしまって、あっと私は口をつぐんだ。時すでに遅し。しっかり井口に聞きとがめられた。
「はあ?俺と違って?俺のキスなんか知らんやろ」
 知ってる、とは言えず、私は押し黙った。

「…いやだから違うやん」
「何が違うねん。知らんやろって」
 知らないけど知ってるんだよな、でもそんなこと言えないよな、と黙ってる私に、なあ、知らんくせに何でそんなん言うわけ、と井口が迫ってきた。

「いやだから」
「だから何」
「だから、知ってる。知ってんねん、井口のその顔」
 そう言って私は、ライオンに射竦められたインパラのように、井口に捕獲された。


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!