【小説】 井口とキスする夢
私に好きな人はいない。
私がこの世で愛しているのは、世界でただ一人、松坂桃李だけ。
なのに。
なのに。
キスしてた。井口と、夢の中で。
*
「藍子、ご飯できてるよお」
1階からお母さんの声がする。でも、私はしばらく呆然とし続けた。
さっきの夢は何だったんだ。
いやに生々しかった。
いつも学校で悪態をつきあい、罵り合っている井口と、キスしていた。
いつもの学校で。
井口が、見たことのない、真剣な顔で、私の目を見つめて。
熱い。胸から顔に、熱がせり上がってくる。
何だったんだ、あの顔は。
深呼吸してみても、顔が熱い。
井口の、あの熱っぽい眼差しが目に焼き付いて離れなかった。
その視線を思い出して、息が止まりそうだった。
夢の中でも私は、ライオンに射竦められたインパラのように、身動きもできないまま、井口に捕獲された。
井口って、キスするとき、あんな顔するんだ。
井口って、男なんだ。
あんなに冴えないやつなのに。
童貞感マックスなのに。
悔しい。
*
学校に着いても、私の足は地面に着かなかった。
どうして、井口のことばっかり考えてしまうんだろう。
昔の日本人は、相手が夢で自分に会いに来てくれた、と考えていたそうだ。古文の先生が言っていた。だとすると、井口が私に会いに来たのだろうか。井口の想いが高じて…?
いや、冷静に考えたらそんなことはあり得ない。いくら夢見る少女の私でも分かる。非科学的だ。
…じゃあ、なにか?
私が井口への想いを募らせたがゆえに、見た夢だとでも?
*
そんな考えで頭をパンパンにしていたら、休み時間に井口に声を掛けられた。
「河合、さっきの授業中、ぼーっとしとったやろ」
「は?そんなことないし。ていうか、井口に言われたくないわ」
しどろもどろになって、早々にトイレに逃げる私。
どうしよう。バレている気がする。
井口に気付かれてる気がする。今日私が井口とキスする夢を見たって、もうバレてるんじゃないだろうか。いやむしろ、クラスのみんなにバレてるかも知れない。ああ。バレてたらどうしよう。恥ずかしい。
トイレで鏡を覗き込む。顔がいつもより赤い気がする。しまった、眉毛を抜き損ねてる。人気者グループのハルちゃんみたいに、パッチリ二重だったら良かったのに。鼻ももっと高かったらなあ。
急に、自分の顔が嫌になってきた。
「藍子、おはよー」
そこへ、当のハルちゃんがやってくる。今日もパッチリ、くりくりのお目目だ。
「さっき、井口が藍子のこと心配してたよ。いつもの元気がないから、あいつ病気なんじゃないかって」
「違うよ。松坂桃李のこと考えてただけ。井口なんか関係ないし」
焦って、聞かれてもいないことを答えてしまった。
バタン。互いに個室に入りながら、会話を続ける。
「井口ってさ、優しいよね。結婚したら幸せになれるタイプ」
「えっ、いやー。そう、かなあ」
個室の中の私は、結婚の2文字にひどく動揺した。動揺のあまりお小水が止まりそうだった。
ジャー、バタン。
個室から帰還した私たちは、洗面台に並んで手を洗う。
「藍子って、井口のこと好き?」
「えっ、いや、ないない。ないないない」
「えー、じゃあ、あたし狙っちゃおうかなあ」
「えっ」
「う、そ。うそだよもう。何ムキになっちゃってんの」
ぽん、と私の肩を叩いて、ハルちゃんがトイレから出ていった。
私は、指で瞼を上に引っ張って、無理やり大きくした目で鏡を覗き込んだ。
*
昼休み、井口はいつもどおり、男同士でぎゃあぎゃあ騒いでいた。
おい、お前ゲームで負けただろ、キス顔しろよ、なんて言われてキス顔を晒す井口。ぎゃははと笑う一同。
「違うんだよなあ」
見ながら私は思わず、声に出てしまった。
「ん?どしたの藍子」
慌てて、いや何でもない、と頭を振る。
違うのだ。井口のキス顔はそんなんじゃない。あんな面白い顔じゃないんだよ。もっと、真剣で、熱っぽくて、もっとこう…。そこまで考えて、ドキッとした。ぐらぐらする。息が苦しい。私はもしかして、井口のことが好き?
松坂桃李のことを考えてた時とは違う、息苦しさだった。桃李の時は、ただただ、胸が苦しいだけだった。幸せな息苦しさ。
だけど、井口への息苦しさは、怖さがある。怖い。何かが本当になる、怖さ。圧迫感。なまなましくて、怖い。
誰かに打ち明けたかった。
今日見た夢のこと、そしてこの気持ちを誰かに話して、水のように流してしまいたい。
だけど友だちには言えなかった。なまなましい恋の話など、まだ私は友だちに話したことがなかった。
「ねえ藍子、聞いてる?どしたの、今日。ずっと心ここにあらずって感じだよ」
「う、うん。実はさ、今日、松坂桃李とキスする夢を見ちゃって」
きゃーっと、女子同士の会話が弾ける。それから藍子は、雄弁に松坂桃李とのキスを語った。松坂桃李になら、何の怖さも感じず恋が出来るのだった。
昼休み終了のベルが鳴り、皆が、がやがやと授業の準備を始めたとき。
ぐいっ。
誰かに肩を押された、と思ったら、井口だった。
わざと私の肩にぶつかって、何も言わずスタスタと歩き去っていったのだ。それは、井口の常套手段だった。いつも、ああやってわざとぶつかってきて、喧嘩をしかけてくる。
いつもなら、ちょっと!と言って私も負けじと突進し、10倍返しをお見舞いするのだけど、今日は出来なかった。胸が痛くって、ただ、ぼーっと井口の背中を眺めていた。
*
放課後、私は長引く息苦しさのあまり吐きそうになっていた。
朝から丸一日、この息苦しさを抱えていたもんだから仕方ない。もしかしてこれが、いつもお母さんの嘆いている更年期というやつなのだろうか。あんな変な夢を見て、私まで更年期になってしまったのだろうか。
トイレでゆっくりクールダウンをし、教室に戻る。皆、部活や下校で教室には人影がなかった。
「おいこら、河合」
扉の影に、井口がいた。誰もいないと思っていた私は、驚きのあまりお小水を漏らしそうになった。
「…井口か。何してんの、そんなとこで」
「河合、今日何やねん。急にしおらしなって。熱でもあんのか」
「ないけど」
「また、桃李が〜、か?キスしたとかいって騒いどったな」
煽っているのか、井口の声は若干の怒気をはらんでいた。
「聞いてたん」
「聞こえるわ、あんな大声。ええ加減、松坂桃李とか諦めろや。しょーもない」
これに、私はカチンときた。
「しょうもなくないわ!井口より数百倍、ええ男やから!」
カチンときたとはいえ、私は、売り言葉に買い言葉が脊髄反射で出てしまうこの性格を呪った。数百倍は言い過ぎだ。正確には十倍くらいだろう。
「そんなん分からんやろ!」
「分かる!井口と違って、桃李はもっと優しくキスしてくれるし!」
言ってしまって、あっと私は口をつぐんだ。時すでに遅し。しっかり井口に聞きとがめられた。
「はあ?俺と違って?俺のキスなんか知らんやろ」
知ってる、とは言えず、私は押し黙った。
「…いやだから違うやん」
「何が違うねん。知らんやろって」
知らないけど知ってるんだよな、でもそんなこと言えないよな、と黙ってる私に、なあ、知らんくせに何でそんなん言うわけ、と井口が迫ってきた。
「いやだから」
「だから何」
「だから、知ってる。知ってんねん、井口のその顔」
そう言って私は、ライオンに射竦められたインパラのように、井口に捕獲された。
いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!