わしはネビル・ロングボトム君に十点を与えたい / J.K.ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』
私たちは、「結果」を褒められることが多い。
仕事で結果を出した、受験に受かった、ダイエットに成功した、困っている人を助けた、などなど。どれも現実を変えた、素晴らしいことだ。
だけど、行動の結果に関係なく、その結果までの努力に対してでもなく、もっと根本的な「勇気」そのものを称えることも必要なんじゃないかと思う。
『ハリー・ポッターと賢者の石』の最後のシーンで、校長のダンブルドアは4人の生徒を称えてそれぞれに点数を与える。(p.450)
ロンには「最高のチェス・ゲームを見せてくれたこと」に五十点。
ハーマイオニーには「冷静な論理を用いて対処したこと」に五十点。
ハリーには「完璧な精神力と、並はずれた勇気」を称えて六十点。
そして最後は、何をやっても失敗ばかりで、いつもみんなの足を引っ張ってばかりだった、"落ちこぼれ"のネビルに対して。
ネビルは、夜中に抜け出そうとするハリーたちを、グリフィンドールの談話室で引き止めたのだ。
その勇気もむなしく、ハーマイオニーに石にされてしまうのだけど…。涙
でも、ダンブルドアは、ネビルのその小さな勇気をちゃんと見ていた。(どうやって知ったのかが気になるが)
映画でも十分どんくさいネビルだが、小説では映画以上に、本当にどうしようもなく、どんくさい子として描かれている。
そんなネビルが、グリフィンドールに十点も貢献した!!!!!!
ネビルは、ハリーたちと違って、何か現実を大きく変えたわけじゃない。結局石にされてるし。失敗に終わっている。
しかし、ダンブルドアが称えたのは「行動の結果」に対してではない。ネビルが「怖さに立ち向かい、勇気を振り絞ったこと」自体を称えてくれたのだ!
現実の世界でも、そうやって「勇気を称える」ことがもっと必要なんじゃないかと思う。
溺れた人を助けるために飛び込んだとか、子供を助けるために火の中に飛び込んだとか、そういった誰にでもできることじゃない大きな勇気はもちろんだけど、
歯医者がめちゃくちゃ怖いけど勇気を出して行ってきたとか、勇気を出して告白したとか、本当は帰りたかったけど面接を頑張ったとか、
そういう日常レベルの小さな「勇気」まで、もっともっと称えられてもいいんじゃないかと思う。
結果だけ見れば、「なんでもっと早く来なかったの」と歯医者に怒られたり、こっぴどく振られたり、面接に落ちたり、ただ「失敗」しただけのように見えるかもしれない。
でもその結果の前に、「逃げずに立ち向かった」という事実があったはずだ。
その事実を、結果次第でなかったことにしていいのだろうか?
次、勇気を出すとき、さらに怖くなるんじゃないだろうか?
たとえば、事業に失敗したとしても、そもそも「起業しよう」と勇気を出したことがまずめちゃくちゃスゴイことだし、
受験に失敗しても、「この試験にチャレンジしよう」と決断したことがもうスゴイことだと思う。
勇気を出して行動しようと「決断したこと」、その選択肢を「選んだこと」は、結果とは切り離して、単体で称えるべきなんじゃないだろうか。
じゃないと、なかなか結果が出なかった場合、「勇気を出したって意味がない」と逃げるほうに行ってしまう。臆病でいたほうが安全、正解ということになってしまう。人間は基本弱いのが当たり前だから。
「勇気」を辞書で引くと、こう出てきた。
面倒なことや嫌なことを頑張るのとはまた少し違う気がする。後回しにしていた掃除を頑張ったとか、ピアノの練習を毎日頑張ったとか。そこには別に、傷つくことや怖さがあるわけじゃないから。
そういう努力(行為)ではなくて、傷つくかもしれないけどそれでも「恐れずに立ち向かう心意気」=心の状態が「勇気」だ。
もしかしたらネビルは、このたった「十点」をずっと誇りにして、残りの学生生活を勇気を持って送れたのかもしれない。
実際、最終的にネビルは「魔法界の英雄」になっている。笑
※ワーナー ブラザース公式HPのネビルについての説明↓
誰かに褒められるために勇気を出すのはまた少し違うかもしれないが、
それでも、動機がどうあれ「怖いけど立ち向かう」という選択とその勇気を「かっこいいね」と称えることは、間違っていないと思う。
だから私はこれから、自分や周りの人の、行動の裏に隠れた「勇気」を探すクセをつけたい。
怖いことに立ち向かおうとした結果の行動なのか?
どうして勇気を出せたのか?
なんのために勇気を出したのか?(みんなのため?自分のため?)
そうやって、見えないところまでじっくり観察して、もし勇気に気づけた時は、「勇気を出せて、かっこいいね」と声をかけたい。自分に対しても、人に対しても。
次の勇気につながるように、十点と拍手を送りたい。