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誰だって、生活・家事の当事者



先日、この方の記事を読んで、「わかるわかる」と共感した。

私も以前から「家事の当事者意識」についてなんとなく思っていたことがあり、一度言語化してみたくなったので書こうと思う。

家事をすることは、つまり生活することで
そこに男性も女性もありません。
今、目の前に展開される出来事、
あるいは目の前にある住まいの様子に対して
常に当事者であるという意識のことだと思うのです。

きよこ@本のライターさんの記事より引用


食事準備は女性のものという意識があったのでしょうか。
それとも食事準備は編集者とライターがすべきもので
カメラマンはしなくていいという判断があったのでしょうか。
食事準備という一点に関しては当事者にあらずの態度を示したのです。
食事においては当事者の態度を示されたのですが。

家事の当事者になることはつまり、
自分の生活、自分の人生に責任を持っているということ。


私は今、専業主婦ではないのだけど、もし専業主婦であっても、夫や子どもにはある程度の家事はしてほしいと思っている。(子どもはまだ3歳なので将来的にね)


「してほしい」というか、
「して当然」だと思っている。


もちろん、料理や洗濯など「家事のメイン業務」のようなものは(私が専業主婦だったり夫より短時間で働いていた場合は)主に私が担うということで異論はない。


責任ある仕事をし、「家計を支える収入を得てくる」という重大な役割を担ってくれている夫に「料理も洗濯も全部やってよ!」とまでは思わない。そこは私がやるでOK。(夫と同等の時間や収入の仕事を私もしている場合は例外)


だけど、例えば王道だけど、

麦茶がなくなったら次の新しいお茶を作っておくとか、トイレットペーパーがなくなったら交換しておくとか、トイレ掃除とか、ゴミ捨てとか…

そういう「一部分、すぐ終わる家事」は、「仕事をしている・していないにかかわらず誰だってやるべき」だと思う。



だって、当事者だから。

一緒に生活をしている、同じ当事者なのだから。
関係者なのだから。

やって当然だろう、と思う。




どうして、自分だって日々麦茶を飲んでいるのに、麦茶を作るところはやらなくていいと思うのか?

どうして、日々トイレを使っているのに、汚しているのに、備品補充や掃除だけはしなくてもいいと思うのか?

どうして、日々ゴミを排出しているのに、ゴミ捨てに関してだけ他人事でいてもいいと思うのか?


当事者なんだから、生活のメンバーなんだから、子どもじゃないんだから、それくらいのことは責任持ってやるのが当たり前だろ、と思う。


細かいことすぎて「家事を分担」っていうほどのレベルですらない。



家事は、お金の発生する仕事じゃない。



仕事ではないのに、

家事を「する」とか
家事を「分担する」とか
家事を「終わらせる」とか…


そういう表現って、
なんというか…こう…


「明確にタスクが決まっていて、それを片付ける」みたいなニュアンスを感じる。






でも、生活って、そんな明確にtodo化されたことばっかりじゃないじゃん。むしろ、そうじゃない細かいことの方が多い。

そういう細かいところは、わざわざタスク化してまで分担するレベルじゃなくて、みんなが当事者意識を持っていれば済む話で。





例えば、私の場合。


ある夜、娘とお風呂に入ったとき、水が溜まっている状態の洗面器が浴室に置いてあった。

その前日、娘がお湯を溜めて遊んでいたのだが、私がお風呂を出るときに片付け忘れていたのだと分かった。



昨日からずっと放置されていた、冷たくなった水。





だけど、私たちのずっと後、夫がシャワーを浴びたはずだ。



私が夫の立場だったら、きっと「あ、娘が遊んだ後そのままにしたな」って気づいて、さっと洗って、片付けておくのに…

実家の私の母だったら、きっと気付いて片付けておいてくれるんだろうな…


そう思ってしまった。






だけどきっと、夫は気付かない。


洗面器に溜まった水のことなんて眼中にすらなかっただろうし、水を長時間放置していると菌が繁殖して洗面器の底がぬるぬるになること、それを私が洗うことになるだろうことも、きっと頭にない。




でも、それをわざわざ夫に言うほどのことでもない。

別にイライラもしない。本当に些細なことだし、きっと気付かなかったのだから、仕方がない。別にそんな怒るところじゃない。


私が全く気付かないところで、夫がやってくれていることもあるだろうし、その辺はお互い様だと思うから。





冷たい水を捨てて洗面器を軽く洗いながら「生活ってこういう、すご〜く小さいことだらけだよな〜」と思った。「料理、洗濯、掃除」とかそういう分かりやすいカテゴリじゃなくて。



と思っていた矢先、

冒頭の「きよこ@本のライター」さんの記事を読んだので、色々と共感したのである。

「そうか、私がモヤモヤしていたのは当事者意識の薄さに対してなのかも?」と思ったのだ。




日々心地よく生きるために、住んでいる家の事をするのは、自分の顔を毎日洗うくらい当たり前なことで

生活をするって、つまり生きるってことで

生きることに関して他人任せって
大人として、どうなの



そういえば、実家にいる頃から、母に任せきりで家事をしない父や兄弟を見ながら、そんなことをずっとずっと思っていた。


当事者なのに他人事の父や兄弟の態度に、ずっとムカついていた。

「誰かがやってくれるから自分はやらない」っていうその図々しさにも、

「いつもお母さんがやってくれるからよく分かんない」を言い訳に、覚える気すらない姿勢にも。


ずっとずっと、私はムカついていた。


そのことを、今、思い出した。



生活において、当事者じゃない人なんていない。

子どもとか何か事情がある人で「物理的にできない」のは仕方ない。


だけど「できるのに、やらない」のは、ただの甘えだ。


誰だって、生活の当事者なのだから。


家事に対してだけは他人事なんて、
大人としてカッコ悪いと思う。


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